人を信じるということ

WBC、ワールドベースボールクラシックが終わり、日本チームは世界一の称号を獲得しました。

予選から7試合、勝ち上がれた背景に、選手たちの活躍があったことは言うまでもありませんが、その選手たちの力を信じ、ベンチから精神的に支えた栗山監督の存在こそ、MVPに値するものではなかったでしょうか。

調子がなかなか上がらない村上選手を主軸で起用し続けるのには、相当な勇気が必要です。準決勝、決勝と、結果が出たからいいものの、もし最後まで調子が上がらずに、日本が敗退したら、世間は栗山監督を戦犯扱いしたかもしれません。

でも、栗山監督はそれを承知の上で、村上選手を信じて使い続けたのです。万一結果が出なければ「オレが全部責任を取るよ」、そこまでの覚悟があってこその起用だったと思うのです。その監督の覚悟があったからこそ、村上選手は安心してプレーを続けることができ、最後はプレッシャーに打ち勝ち、自分の力を出し切れたのでしょう。

つまり、人を信じるということは、結果いかんに関わらず、信じるということです。万一結果が出なければ「私が責任を取る」、そこまでの覚悟があってこその信じるという行為なのです。

そして、そこまで覚悟できれば、結果の善し悪しに左往されることはなくなります。たとえそのときの結果が思わしくなくても、人に信じてもらえたことは心の中に残ります。そして、次のチャレンジ、そのまた次のチャレンジに、力となって生きてくるはずです。

不登校の子の将来が心配になり、見守ることが苦しくなってくる時期があります。だらだらとゲームばかりやったり、昼夜逆転している子を見ると、この子が自立して、何かを学びだす日が来るのだろうかと疑って、心配になることがあります。

でも、そういう不安がよぎったときこそ、人を信じる力が必要になるのではないでしょうか。結果はすぐに出ないかもしれないけれど、それでも子どもを信じて、見守っていく。確かに保護者として、精神的に相当きつい、胆力を要することだと思います。でも、親に信じてもらえたことは、子どもの心の中で密かな喜びとなり、自信となり、将来の自立につながっていくのだと思います。

結果いかんに関わらず、人を信じて任せること。それこそが最高の人の育て方なのだということを、今回の激戦を通じて、栗山監督は我々に教えてくれたような気がします。

概ね、だいたい大丈夫。

中国に「杞憂」ということわざがあります。

その昔「杞」という国があり、そこの人が「天や地面が崩れ、太陽や月や星が落ちてくるんじゃないか」と心配し、食事ものどを通らず、眠ることもできなくなったとか。そこから転じて、無用の心配をすることを「杞憂」と呼ぶようになったそうです。

不登校の子どもの将来を考えると、いろんなことが心配になってきます。学校に行かずに、ずっと家にいて大丈夫だろうか。勉強を全然していないけど遅れは取りもどせるのだろうか。進学はできるのか。学歴は取れるのか。就職はどうなるか。このままずっと家に引きこもるのか……。悪い想像は際限なく膨らみ、5年、10年、その先のことまで心配になってきます。

目の前のお子さんだけを見ていると、確かにそうなるでしょう。でも、俯瞰してみると、世の中にはかつて不登校になった人で活躍している人はいくらでもいます。通信制の高校や大学に通ったり、バイトや就職したり、中には起業して事業を営んでいる人もいます。私の知りあいにはユーチューバーになって稼いでいる人もいます。だからさほど心配することはなく、だいたいは大丈夫なんですね。

一般的に人間の想像は、悪いことほど膨らんでいきます。杞の国の人のように、ありえないことまで心配すると、最後は病んでしまいます。でも、考えてみてください。交通事故を心配すると外は歩けませんよね。墜落を恐れたら飛行機にも乗れませんよね。私たちは常日頃、心配事はあるものの「概ね、だいたい大丈夫」と思って生きているはずです。不登校も同じで、そんなに悲観することはありません。

確かに「絶対に大丈夫」と確約することはできません。不登校をずっと引きずってしまう人も稀にはいます。でも、そんなことを言ったら、学校に通っている子の将来だってどうなるか分かりません。学校を卒業して、会社に入ってからうつ病になる人も少なからずいるのです。いっとき不登校になったぐらいで人生が終わるはずはありません。ほとんどの場合は大丈夫。学校に行かずとも、子どもはしっかり大人になっていきます。将来食いっぱぐれる心配もありません。

悪いことばかり考えずに、ぜひよいことも考えてみてください。学校に行かず、家にいて文章を書いていた子が小説でデビューし、芥川賞を取るかもしれません。書いていた絵が評価され、画家になるかもしれません。音楽が認められ、メジャーデビューするかもしれません。もちろん、そうなる確率はかなり低いです。でも、不登校でつまずいて人生が駄目になる確率も同じくらい低いのです。

つまり、将来のことは誰にも分かりません。起きてもいない出来事を心配するより、大切なのは、いま目の前に居るお子さんの幸せではないでしょうか。不登校になってどうしようと、親が狼狽え、心配していたら、子どもはいつまでも幸せになれません。根拠はないけど、「大丈夫だよ」といって、お子さんの不安を取り除き、安心させてあげましょう。将来の不安より、いまの幸せを優先してください。

どうやって学校に戻るか。どうやって勉強するか。どうやって進学するか。どうやって生きていくか。親がどっしり構えていれば、やがて子どもが自ら考え、動きだすようになります。「概ね大丈夫」と親が思っていれば、だいたい上手くいきます。子どもは大人が思っているほど弱い存在ではありません。子どもを信じて、ゆったりした気持ちで見まもりたいものです。

ゼロをベースに考えてみる。

つい最近、私は一般社団法人を立ち上げました。名前は「楽習楽歴」。子どもたちの「好き」を中心とした楽しい学びをデジタル上に記録して、その学びの成果と企業を繋ぎ、アルバイトや就労に結びつけていくことを目的に立ち上げた団体です。

仲間と一緒に立ち上げ、活動を始めましたが、さて、実際にやってみると、これがなかなか難しい。いろいろやるべきことが見えてきて、課題が山積みであることがわかりました。ここでは具体的に触れませんが、金銭面のことも含めて、わからないことだらけ。先のことを考えると、本当に実現できるんだろうかと不安になり、途方にくれることもしばしばです。

みんなの力をお借りして、夢に向かって動きだした団体ですが、その分、背負ってしまった責任も重く、ネガティブな感情に支配されることもあります。困ったなぁ。こんなこと、果たして実現できるんだろうかと、落ち込んでしまうわけです。

悶々とした時間を過ごし、ひとりで頭を抱えたりするのですが、でも、あるときふと、「別に無理してやらなくてもいいんじゃないの?」という思いが浮かびました。うん、そう、無理してやらなくてもいいんじゃないの。

不登校の問題を解決したいと思い、立ち上げた団体ですが、そもそもこの団体はいままでになかったものだから、もし、私たちが思いを形にできなくても、ただ元に戻るだけのこと。そう思った瞬間、憑きものが取れたみたいに気が楽になりました。

そう、目標地点を基準に考えてしまうと、できないことばかりに目がいって、悲観的になってしまう。でも、どうせ世の中にないことをやっているのだから、ゼロをベースに考えればいい、そう思えたのです。ゼロを基準にすれば、すべてがプラス。マイナスはひとつもなくなる、と。

自分たちにできる小さなことから、こつこつ始めればいい。それが積もり積もれば、大きなことになるかもしれないし、まぁ、ならなくてもゼロに戻るだけだから大丈夫。そう思えたら、心が楽になり、がぜんやる気が出てきました。

そして、このことについて考えるうちに、実は不登校の子も同じなんじゃないかなと思うようになったのです。学校復帰とか、社会に出るとか、勉強するとか、進学するとか、そういう目標地点を設定してしまうと、できないことばかりに目がいって、苦しくなってしまう。あれもできない、これもできないで、「はぁ」となってしまうのです。

でも、ゼロを基準に考えたらどうだろう。ゼロを前提に考えれば、朝起きられた、ご飯が食べられた、楽しそうに笑えた、散歩に行けたなど、小さなプラスが喜びとなって、積み重なっていくのではないか。

そうか。ゼロをベースに考えればいいんだ。そうすれば心が楽になる。心がポジティブになれる。そう思えるようになったのです。

自分の経験を通して、不登校の子の気持ちがちょっとわかった瞬間でした。

子どもと対等に話すために必要なこと。

前回からの続きです。前回「不登校対応の答えは、話しあいの中にある」という記事を書きました。でも、いきなり子どもと話し合おうとしても、相手が応じてくれないことがあります。なかなか本音を話してくれない。無理やり聞きだそうとすると、機嫌をそこねて行ってしまうこともあります。

なぜ、子どもは心を閉ざしてしまうのでしょう。その背景には、「親に対する不信感」があるのだと思います。

子どもの気持ちを聞くためには、まず「人の話を聞く姿勢」が大切です。当たり前のことですが、意見を一方的に押しつけてくる相手に、人は自分の想いを話しません。たとえば怒っているばかりの上司が職場にいたとして、「君の意見を言ってみろ」と言われ、本音を話せるでしょうか。話せませんよね。それと同じです。

まずは「聞く姿勢」が大切です。そのためには、日頃の子どもに対する自分の言動を点検する必要があります。自分は子どもに一方的に考えを押しつけていないだろうか。子どもの主張をわがままと決めつけていないだろうか。子どもに「○○○させる」「○○○させない」と、命令や禁止ばかりを言っていないだろうか。

要は、子どもの気持ちを本気で理解する気があるか、ないかということですね。親の意見はあくまでも親の意見に過ぎず、相手の意見や思いをまずは尊重する。わがままや甘えと決めつけない。その姿勢や態度があって、初めて子どもとの対等関係が築けるようになるわけです。

ところが、これがなかなか難しい。生まれたときから何もできない、泣いてばかりいる子を見ているから、親はどうしても子どもは頼りない存在だと思い、自分が教え、導いてあげなければならないという、上から目線になってしまうのです。

まずは上から目線をやめて、相手を対等な一人の人間として見なし、その子に向きあってみてください。相手の言葉を否定せずに、肯定的な気持ちで聞いてみてください。その上で、いきなり本題に入るのではなく、普段の何気ない会話から子どもとの対等関係を築いていきましょう。

「最近どうしてる?」「なんか面白いことあった?」「どんな音楽を聴いてるの?」「好きなユーチューバーはいる?」「そのゲーム、一緒にやってみたいけど、教えてくれる?」

子どもの好きなことに興味を示し、共通の話題を持つのもいいかもしれません。子どもからいろいろなことを教わるのもいいかもしれません。そういう普段の何気ない会話を重ねるうちに、子どもは少しずつ心を開いて、この親は何を話して大丈夫なんだと思うようになります。

まずは親が子どもに心を開き、相手を一人の人間として認め、尊重して接すること。それができるようになれば、子どもと対立せずに、大切な相談事もできるようになります。

まずは自分の普段の振る舞いを点検することから始めてみる。これが人と円滑なコミュニケーションを取るために最も大切なことだと私は思います。 

不登校対応の答えは、話しあいの中にある。

今年はコロナの規制が緩和されたせいか、「おはなしワクチン」をリアルで開催する機会が増えてきました。対面でお話しするのは、やっぱりZOOMの画面越しよりいいですね。参加者の皆さんの反応が見えるし、こちらもより気持ちを込めて伝えることができる気がします。

リアル開催の場合はオンラインより、質問や意見が活発に出てきます。そんな中で、久しぶりに自分が感じたことを今日は書きます。それは、お子さんへの対応に関して「正解」を求める人が多いなぁということです。

たとえば、こんな質問。「ゲームを制限していますが、好きなだけやらせて大丈夫でしょうか?」「子どものいまを認めればいいことはわかりましたが、こちらから提案するのはいいのですか?」「どうやったら子どもを外に連れだせますか?」などなど。

こういった質問に対しては、一応自分なりの考えをその場でお伝えします。でも、私は心理学の専門家ではないので、正直いって回答に自信はありません。いや、たとえ専門家でも、今日お会いしたばかりの人に、お子さんの顔も性格もわからないまま、このような問いに答えを出すのは難しいと思います。お子さんの性格、学校に行けなくなった原因、友達との関係、担任の先生との相性、両親の性格、兄弟の有無、家庭環境など、状況を左右するファクターが多すぎるからです。

ゲームを好きなだけやらせて大丈夫かどうかは、ケースバイケースだと思います。いま置かれているお子さんの状況や、精神状態、両親との関係などによっても違ってきますから。安心した環境でゲームができていれば依存症になるリスクは少ないでしょうが、両親との関係が悪く、ゲームの世界だけに閉じこもっている場合は、大丈夫と無責任に言いきれない場合もあります。個々のケースによって違うので、答えるのがとても難しいのです。

さて、こんなやりとりを交わしている中で気づいたことがあります。それは、不登校になっているお子さんとの日々の「対話」が足りていないのではないかということです。いま目の前にある問題を解決しようと焦るあまり、肝心かなめの「本人」の気持ちを聞き出せていないケースが多いような気がします。

家にこもりがちな子どもを外に連れ出したいという親の気持ちはわかります。でもその答えを求める前に、本人が外に出たいかどうか、その気持ちを聞くことが大切ではないでしょうか。ゲームに制限をかける前に、なぜゲームがしたいのか、どんな思いでゲームをやっているのか、その気持ちを聞くことが大切です。だから、ぜひお子さんと話しあってほしいのです。たくさんたくさん心を開いて、馬鹿話でもいいから、話しあってほしいのです。

急いで正解を求めるのではなく、目の前にいるお子さんの顔や顔色を見て、目を見て、どんな気持ちなのかを想像しながら話を聞いて、その上で上記のような質問をお子さんに投げかけて、一緒に答えを探してほしいと思うのです。

全てを魔法のように解決する答えはありません。いつだって答えは個々の中にありますし、それを見つけるためには相手とじっくり話し合う必要があります。「ゲームをやらせていいかどうか」ではなく、「なぜゲームをやりたいの?」「あなたはどうしたいの?」ということをお子さんとじっくり話し合ってみてください。その話しあいの中に、答えはきっと見つかると思います。

ただし、もちろん、子どもはなかなか話をしてくれません。特に不登校で自信や元気を失っているお子さんは、なかなか本音を語ってくれません。その背後には、親を含めた大人への不信感があるからです。その不信感を拭うためには、どうすればいいか。この話をすると長くなりそうなので、次回に譲りたいと思います。

不登校の人生を切り拓く「夢中力」とは?

「好きなことだけやって、食っていけるか?」

子どもが学校に行かなくなって、親が心配するのは、まずこの点でしょう。子どもは学校に行って勉強し、さまざまな知識を身につけて、人間的にも成長して社会人になると信じているからです。だから、学校にも行かず、家にこもってゲームばかりしている子を見ていると、とても心配になってきます。

でもね、たとえゲームでも、それが好きで、ずっとそればかりやっていられるというのはスゴイことなんですよ。そして、好きでずーっと夢中になっているうちに、その分野ではかなりの知識を得て、技術的にも高いものを習得するようになります。

これを私は「夢中力」と呼びたいと思います。人が何かに夢中になることによって獲得する力のことです。

何か一つのことに夢中になった経験がある人なら分かると思いますが、「夢中力」は人間を強くします。一つのことを極めれば、その経験は必ず他の分野で応用できるようになるからです。

たとえば、ゲームですが、確かにゲームだけで将来食っていくことは難しいかもしれません。eスポーツの選手になる道もありますが、それで食べていけるのは限られた人だけです。

でも、たとえば音楽でも、音大を出た人のすべてがコンサートの演奏家になれるわけではありません。画家だって、目指した人のすべてが絵描きになれるとは限りません。

しかし、たとえ演奏家になれなくても、学校の音楽の先生や、ピアノの先生をやって生きている人はたくさんいます。画家にはなれなくても、イラストレーターやグラフィックデザイナーで食べている人はたくさんいます。

ゲームの場合でも、確かにeスポーツの選手で食っていくのは難しいかもしれません。でも、これだけゲームがメジャーになってきたら、将来ゲームの教室を開いて指導者になったり、あるいはゲーム作家になったり、プログラマーになったりと、周辺の仕事で生きていく道はいくらでもあると思います。

ですから、いまはどうかゲームを取りあげずに、好きなことをとことんやらせてあげてください。不登校のこの時期は、中途半端に学科のドリルなどをやるよりも、ゲームならゲームにどっぷりはまり、「夢中力」を育てることが大切です。

好きこそものの上手なれという言葉があります。好きなことをやって身に付く「夢中力」は、人生を切り拓くうえで必ず役立ちます。

戦時中の教育は、もうやめにしましょう。

今朝のモーニングショーは、「なぜ日本は経済成長できないのか」というテーマでやっていました。理由として番組では、「終身雇用」と「年功序列」という二つの要因を挙げていました。

興味深かったのは、この「終身雇用」と「年功序列」は、戦時中の国家総動員法によってできた制度の名残ではないかという話です。

自由のない雇用の体制と、年齢による厳しい上下関係、なるほど、よく考えてみるとこれはまさに「軍隊」そのものです。つまり、日本の企業は戦時中の軍隊の体制をそのまま引きずってきて、現代に至っているということです。

それを見ていて思い出したのが、日本の教育のことです。元文科相の事務次官だった前川さんも言っていますが、日本の公教育にも戦時中の軍隊教育が色濃く残っているのです。

たとえば、「前へならえ」なんてあたりまえにやっていますが、あれはまさに軍隊ですよね。「遠足」や「運動会」も行軍演習や軍事教練の名残です。

確かに戦時体制においては、「自由」とか「人権」なん言ってられません。いまのウクライナを見ても分かりますが、戦時においては命がかかっているので、鉄壁の集団行動が求められます。自由とか人権とかいっている余裕はありません。全員が強固な命令指揮系統に従う必要があるのです。

だから、戦時下でそういう教育があったことはうなずけます。でも、今は戦時中ではありません。戦後70年以上もの時が経ち、社会はすっかり平和で、自由になっています。こんな時代になったのに、いまだに戦時中と同じ感覚で教育をやっているのは、ナンセンスとしかいいようがありません。

学校教育も、企業のあり方も、どっちも日本は戦時体制を引きずっている。これじゃあ世界の国々から置いてきぼりを食らうのも当然だと思います。

なぜ学校の先生は、軍隊みたいに「ピッ」と笛を吹いて子どもを従わせる必要があるのでしょう。なぜ一糸乱れぬ整列を子どもたちに強要するのでしょう。こういう根本的なところから考え、教育のあり方をぜひ見直してもらいたいと思います。

いまや世界の中での日本のポジションは、再開発の進む街で取り残されたボロボロの古いビルみたいになりつつあります。改革の進まない日本は、国そのものが巨大なシャッター商店街になりつつあるのです。

終身雇用、年功序列、新卒の集団採用、時代遅れの学校教育、すべてを取り壊して更地にし、新しい体制にしていかない限り、日本に未来はないと思います。

本はあくまでも参考程度に

これまでに私は不登校関連の本を2冊書かせていただいています。ひとつはこのブログと同名の「おはなしワクチン」で、もうひとつは昨年出版した「『とりあえずビール。』で、不登校を解決する」です。

出版してくださったびーんずネットの方に感想がたくさん寄せられていて、先日それを読む機会に恵まれました。感想のうち多くは肯定的なもので、「腹落ちした」「安心できた」「助かった」「買って良かった」という言葉が並び、ああ、苦労して書いた甲斐があったなぁと、しみじみ感謝の気持ちでいっぱいになりました。

ただ、中には一部、否定とまではいかないけれど、納得できなそうな意見も見られました。それを見て思うのは、そういう納得できないような感想こそ、大切にしてほしいなということです。

本の中でも触れていますが、この2冊の本の内容は、あくまでも私個人の感想であり、万人に対しての解決策を示したものではありません。不登校の問題は、極めてパーソナルなものなので、「これで大丈夫」という分かりやすい解決策がないのです。

子どもの不登校になった原因によっても違うでしょうし、子どもの性格にもよります。そこに家族構成や親の性格、家庭の事情といったものが複雑に絡み合い、学校の対応、祖父母の対応なども関与してくるため、不登校が抱える問題は千差万別で、一冊の本を読んだぐらいでスッキリ解決できるものではありません。だから、違和感や納得できない部分があってあたりまえなのですね。

でも、実は、そこからが大切ではないかと私は思います。ただ「納得できない」で終わってしまってはもったいない。なぜ納得できないのか、だったら自分はどう考えるのか、心に芽生えた違和感をきっかけに、とことんご自身で考えていただきたいのです。

私自身は「学校復帰を強要するのはよくない」という立場ですが、「やっぱり学校に復帰させるべきだ」と考える方もいるでしょう。その意見はもちろん尊重されるべきですが、でも、ここで肝心なのは「なぜそうなのか」という問いを立てることです。なぜ学校復帰をした方がいいのか、なぜ不登校を認めてはいけないのか、そこのところを徹底的に考えてほしいと思います。

そのためには多方面からさまざまな情報を仕入れる必要があります。いろんな人の本を読み、セミナーなどを受け、他の不登校の保護者の意見を聞いたり、不登校経験者の話を聞いたりして、その上でお子さんの不登校をどのように考えるか。また、どのように解決するのがベストなのかの結論を自ら導き出していただきたいと思います。

不登校をどう解決するか、という問いに正解はありません。なぜなら、人の人生には正解がないからです。でも、答えのない問いにとことん向き合えば、その結果として出てきた自分の「解」は、正解かどうかは分かりませんが、きっと納得できるものだと思います。

ですので、本はあくまでも参考程度に読んでいただけたらと思っています。

もしも日本の外食がすべてマックになってしまったら。

昨年、『「とりあえずビール。」で、不登校を解決する』という父親向けの不登校の本を書きました。びーんずネットさんから出版していただきましたが、おかげさまでたくさんのご注文をいただいているようです。

さて、この本では、不登校の状況をわかりやすく説明するために多くの例え話を用いています。本のタイトルになった「とりあえずビール」というのもそのひとつ。不登校の対応を「いま」と「未来」に切り分けて、とりあえずはいまできることをやりましょうという提案をしました。

他にも、この本にはたくさんの食べ物のたとえが出てきます。たとえば食欲です。食欲がないと、どんなにおいしい料理でも食べたくなりません。学びも同じで、子どもの「意欲」が回復しないうちに、やれフリースクールだ、通信制教育だと薦めても、子どもは食べませんということをお伝えしました。

さて、この本では書きませんでしたが、そもそも学校教育自体が抱える問題も、食べ物にたとえるとわかりやすくなると思います。

いまの日本の小学校は99%が公立校で、わずかに1%が私立校です。そして、そこではほぼ一律に、文部科学省の学習指導要領に沿った教育が行われています。

こう書くと当たり前のように思えますが、でも、ちょっと考えてみてください。食べ物にたとえれば、これは日本に存在する外食産業の99%がマクドナルドになってしまったような状況です。食べに行くところはマックだけで、それ以外の選択は許されないのです。

これって、どうなんでしょう。もちろんマックのハンバーガーはおいしいし、栄養価もあると思います。でも、マックが苦手な子や、アレルギーのある子もいるはずで、そんな子でも無理やりマックを食べなければならないのでしょうか。

マックもいいけど、デニーズやサイゼリヤもあるし、牛丼屋や回転寿司もある。そもそも外食じゃなくて、うちで作って食べてもいい。本来はこういう状況であるべきだと思います。

だから、国にお願いしたいのは、いろんな教育の選択肢を作ってほしいということ。地域にいろんなタイプの一条校を作って、それを選べるようにしてほしいのです。そしてもちろん、学校に行きたくなれば、うちで学んでもいい。そうすれば不登校の問題はたちまち解決すると思います。

それができないのであれば、せめてオルタナティブスクールを公認してください。私もマックのハンバーガーは大好きですが、でも、食べるものがマックしかないという状況はおかしいし、子どもたちも苦しいと思います。

「『とりあえずビール。』で、不登校を解決する」

https://peraichi.com/landing_pages/view/toriaezu-beer/

夢みたいなこと、やってほしい。

このブログでは何度も大人の身勝手というか、子どもに対する姿勢の矛盾について取りあげてきましたが、今回は「夢を追う」ということについて考えてみたいと思います。

子どもに向かって大人がよく聞く質問のひとつに、「将来の夢はなに?」というものがあります。「あなたは何が夢なの?」「大人になったら何になりたいの?」自分も子どもに向かってこんな問いを発した記憶が確かにあります。

子どもの答えはいろいろですね。「僕はミュージシャン」「私は女優さん!」「一生懸命勉強して宇宙飛行士になりたい!」などなど。

目を輝かせて思い思いの夢を口にする子どもたちを見て、大人は微笑ましい思いにひたります。

ただですね、これが子どもの年齢が上がってくると、まったく事情が異なってきちゃうんですね。たとえば高校生とかそれ以上の年齢になって、何になりたいんだと聞いて「僕はミュージシャンになりたい!」「私は女優さん!」なんていうと、「なに夢みたいなことばかり言ってんだ」って答えが返ってきちゃうんです。

小さい子には「夢を持ちなさい」というくせに、大きな子には「夢みたいなこというな」って、どう考えても矛盾していませんか。

たしかに現実的にはどうやって食ってくんだっていう心配はあるかもしれないけれど、そんなのは本人が一番心配しているはずだし、実際困るのは本人だし、任せておけばいいんじゃないかと私などは思うわけです。

子どもに「夢を持ちなさい」というのなら、それがたとえどんな夢でも、何歳になっていても、その夢を全力で応援するのが親であり、大人の務めではないでしょうか。

子どもには「夢みたいなこと」を、ぜひやってもらいたい。

たとえ夢は叶わなくても、人生、なんとかなりますから。いや、絶対になんとかなるでしょう。それが「子どもを信じること」ではないかと思っています。