「おはなしワクチン」りんごの木アンケート結果

DSC01341アンケート結果をご報告します

2018年1月27(土)、りんごの木。柴田愛子さんという素敵な女性が代表を務める保育の場で、不登校にならないための「おはなしワクチン」セミナーを開催させていただきました。参加者の皆さんにお伝えしたポイントは以下の3つです。

  1. 不登校は法律的に見て問題行動ではないということ。子どもは無理やり学校に行く必要はないということ。
  2. 普通の学校以外にも、多様な学びの選択肢があること。それでのびのびと育っている子どもたちがいること。
  3. 多様な学びの一例として「サドベリースクール」をご紹介し、その教育の背後にある子育ての理念について説明しました。

りんごの木は、子どもに好きなことをして過ごしてもらう自由な保育のクラブです。サドベリー教育との親和性が高いため、半分ぐらいの保護者の方がすでにサドベリーの名前をご存じでした。

50名ほどの保護者が参加してくださり、33名がアンケートに答えてくださいました。以下、その結果をご報告します。

Q1 おはなしワクチンを受けた感想はいかがでしたか?

よかった 97%

まあよかった 3%

ふつう 0%

あまりよくない 0%

よくなかった 0%

Q2 今日の話は子育ての参考になりましたか?

参考になった 97%

まあ参考になった 3%

ふつう 0%

あまり参考にならない 0%

参考にならない 0%

 

 

〈参加者の皆さんのコメント〉

〇これから一年かけて、サドベリー含め、これからの環境を考えていくいい機会になりました。一瞬、サドベリーに行かなければ幸せになれないかも…ぐらいゆれましたが、蓑田さんのお話で元気をもらい、やはり何事も覚悟なのだなと、改めて思いました。子どもの覚悟、自分への覚悟を。たくさんパワーを頂きました。ありがとうございました。

〇不登校が増えていることなど気になっていました。子どもの安心して居られる場所を見つけるのも親の役目なのかなと思い、もしかしたら居場所が家だけだと引きこもりになってしまったりしないかなと思っていたところでした。親として見守る、対等な立場…などなど、心がけたいと思いました。ありがとうございます。

〇子どもの権利、義務を改めて考える機会になりました。子ども自ら人生をデザインする。意識していきます。「親は土壌で、子どもは種」「どちらも未熟者同士」たくさんのキーワードの一つ一つを考え、自分の中に取り入れたいと思った時間になりました。ありがとうございました。

〇りんごの木の小学校ができれば良いなぁと思っていましたが、その一方でしっかり教育ができるのかと疑問に思っていました。今日の話を聞いて疑問が解けました。もっとサドベリー教育が増えて、世間の理解が深まれば良いと思いました。

〇私は小学校で先生をしているので、今日の話は先生たち、保護者の方々にきいてほしいと思いました。ぜひ機会があればお願い致します。

〇教育については勉強してきましたが、実際の保護者の方のお話をきけて、実感をもって学びを吸収できました。

〇こんな「学校」に通わせたいとは思いますが、やはりお金がモンダイですね。

〇「サドベリーって素敵だけど不安すぎてムリ!」という気持ちでしたが、今日のお話を聞いてふっきれました。どこでどう育とうと、育つのは子ども(人)ですね!ありがとうございました。

 

 

 

〇サドベリーの本質を知ることができました。親として、どう子どもと接していくか、あらためて考える機会になりました。

〇子どもに見学させてみようと思います。本当に「子どもを信じる覚悟」、親も修行ですね。

〇関西のサドベリースクールの本を読んだことがあり、とても興味がありました。親としては見学へ行ってみたいです。貴重なお話をありがとうございました!

〇“子どもがのびのびできる場”であってほしいと思うので、小学校を探していて数年前にサドベリーを知りました。りんごに行き、サドベリーのことをもっと知ることができてよかったです。本当はりんごの木の近くにも! ぜひサドベリーができてほしいです。見学にはぜひ行きたいと思います。

〇子どもの人生を子どもに渡す…よくよく理解しながらブレてしまう親心。期待しない、心配しないではいられない親心。悩ましい日々です。

〇すごくすごく良かったです!

〇学校以外の学びについて知ることができてよかったです。子どもを一人の人として関わったり、学ぶ場を選んだりすることが大切だと思いました。ありがとうございました。

〇多様な学校の存在を知られて良かったです。

〇子どもは子どもの人生という気持があるので、話を聞かせて頂けてとても共感が持てました。

〇本日は貴重なお話をありがとうございました。今回、初めてサドベリースクールのお話を聞かせていただき、衝撃の連続でした。自分がいかに子どもに自分の価値観を押しつけていたか、いろいろ考えさせられることが多かったです。子どもを信じて、子どもを見守れる親に少しでもなりたいです。お話を聞かせていただけて本当に良かったです。ありがとうございました。

〇とても勉強になりました。

〇子どもを信じる覚悟につきる!と感じました。

〇サドベリースクールについて、ほとんど内状をしらなかったのでとてもよい機会になりました。それ以上に、親としての考え方、生き方、子どもとの接し方、根本的なことについて学ばせていただきました。本当にありがとうございました。

〇親としての“あたりまえ”という考えをすてて、子どもがどう自律することが最善なのかを考えられて、とてもよい機会でした。ありがとうございました。

〇子どもはまだ3歳ですが、子どもと育っていくための親の気持ちを学ぶことができてよかったです。ありがとうございました。

〇自分の子どもについて、親として話を聞いた部分と、私の育ってきた過去を思い出して、自分を中心に聞いた部分があります。育児、とてもおもしろい、たのしい! でも自分は苦しいと思うこと多いです。一緒に育ちたいですね。

〇以前にくらべて学校以外の多様な学びがテレビ等で知られるようになってきていますが、もっといろんな人にそのことがあたりまえのように受け入れられるといいと思います。サドベリースクールの方とお話するのは初めてだったので、お話が聞けてよかったです。ありがとうございました。

〇日々迷い生活してます。聞いたお話はセミナーなどでもたまに聞くのです。あまのじゃくなので頭で分かっていても行動に移せない自分がいます。子どもを「自由」にしてあげたいです。

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「りんごの木」で、おはなしワクチン!

DSC01329サドベリーと同じ空気

「りんごの木子どもクラブ」の創立は1982年。代表である柴田愛子さんの「子どもは自ら成長する力を持っている」という考えで始まった自由な保育の場です。「子どものやりたいことをとことんやらせる」という方針は、まさにサドベリー教育に通ずるもの。そこで「おはなしワクチン」をやらせていただける、こんなに幸せなことはありません。

1月27日の土曜日、お休みの日にも関わらず50名を超える保護者の方とスタッフの方が集まってくださいました。こちらは東京サドベリースクールのスタッフと、私と、保護者の3人。それにフリースクールにお子さんが通われる方もお手伝いに来てくださいました。

もともとサドベリーと親和性の高い保育の場なので、保護者の皆さん、興味ありありといった感じ。柴田さんのユーモアたっぷりの挨拶から、素敵な時間が始まりました。

スクールの立場から

まずはスクールの代表理事、杉山さんからサドベリー教育についての説明がありました。「サドベリー知っていますか?」の問いに、半分ぐらいの方が手を挙げられました。これが多いのか少ないのか? たぶん「りんごの木」だから知っている人は多いのでしょう。一般の保育園ではほとんど知られていないのではないでしょうか。

サドベリースクールの歴史、教育の方針、スクールでの生徒の日常などを写真を交えて紹介。前列に座っている方はご存じなのか、うんうんと何度も頷く様子が見られました。さすがに子どもたちがゲーム三昧のところでは、驚きと戸惑いの表情も……。ここは意見が分かれるところですね。

さて、スタッフからの説明が終わり、いよいよバトンがまわってきました。「おはなしワクチン」接種の時間です。

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保育の場で初めての「おはなしワクチン」

おはなしワクチンのポイントは3つ。一つ目は、「不登校になっても大丈夫なことを法律面から考えること」。二つ目は、「世の中には学校以外の多様な学びの場がすでにあることを知っていただくこと」。そして三つ目は、「保護者の立場から見たサドベリー教育の価値」です。

まず、「日本国憲法」と「学校教育法」、一昨年成立した「教育機会確保法」の条文を紹介し、不登校が法律的に問題ではないことを説明しました。義務教育は、保護者の義務であって、子どもが学校に通う義務ではありません。法律的に見ても、不登校は何の問題もないのです。ちょっと固い話なので心配でしたが、皆さん熱心に聞いてくださいました。

続いては多様な学びの話。今回はサドベリースクールのスタッフから事前に説明があったので、ここは簡単に説明しました。サドベリーに限らず、シュタイナーやイエナプラン、東京シューレなどのフリースクール、ホームエデュケーションもあるよとお伝えしました。

そして、最後は「保護者から見たサドベリー教育の価値」です。「子どもと親は対等関係」「子に期待しない、心配もしない」「自由と責任はセット」などについてお話しました。でも、いちばんお伝えしたかったのは、自分で自分の子のことを考えること。「親とは何か」「学校とは何か」普段スルーしてしまっている根本的なところに目を向け、自分なりに教育について考えることが大切であるとお伝えしました。

そう、何より重要なのは、「自分で考えること」だと思います。なぜなら、それぞれの子ども、それぞれの家庭は違うから、人の方法をそのまま当てはめても、うまくいかない場合もあるのです。

笑いあり、うなずきあり、真剣なまなざしありの楽しい時間。話す側と聞く側の心がひとつになって、あっという間に時が過ぎていきました。今回のおはなしワクチンで保護者の皆さんが感じたことは、アンケートの結果を後日まとめてお知らせいたします。

今後の展開が楽しみ

今回は、保育園で初めて行った「おはなしワクチン」でしたが、想像以上に皆さんの反応がよく、好意的に聞いていただけたようです。「子どもは自ら成長する力を持っている」「大人がこう育てたいではなく、その子のやりたいことをやらせる」という、りんごの木の方針とサドベリー教育の考えが近かったからかもしれません。

代表の柴田さんも「ほんと、私がいつも考えていることとおんなじこと!」と言ってくださり、「私の本を読んだからじゃない」と言って笑いを取っていました。

就学前のお子さんを持つ保護者の方に不登校の問題を考えていただくことは、とても大切なことだと改めて思います。不登校になると何か悪いことのように思えますが、それは社会の方が間違っているから。不登校自体、なんの問題もなく、ただ学校に行っていないだけのことなのです。

学校以外にいくらでも学びの場はあるし、それで立派に育っている人もいる。そのことをあらかじめ知っているだけで、不登校の問題はあらかた解消します。

柴田さんを始め、スタッフの方、保護者の方とも今回はゆっくりお話しすることができました。そして、「今の教育に新しい風を吹き込もう」という思いで一致しました。今後もまた、柴田さんのお力をぜひともお借りしたく思います。

次の活動へつながる予感をいただいた、素敵な会になりました。柴田さん、スタッフの皆さん、保護者のみなさん、本当にありがとうございました。りんごの木、サイコーです!

 

保育園で「おはなしワクチン」やります!

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りんごの木で「おはなしワクチン」やります!

今度の1月27日の土曜日、横浜にある保育園「りんごの木」さんでお話しをさせていただきます。りんごの木は、柴田愛子さんが代表をつとめる素敵な保育園。子どもたちは一人ひとりの個性を大切にされながら、のびのびと育っています。

今回お話しさせていただく対象は、園の保護者さんとスタッフさんです。なぜ保育園で「おはなしワクチン」? その最大の理由は、未就学のお子さんを持つ保護者の皆さんに、お子さんが不登校になる前に「不登校」への対処法を知っておいてほしいからです。

もちろん、小学校に上がって必ずしもお子さんが不登校になるわけではありません。ほとんどの場合は学校になじみ、楽しい学校生活が始まります。

でも、それでも、ある日突然、不登校になることがあります。そうなると「学校に行きたくない」と言い出す子を前に、親はどうしていいか分からなくなります。

「え、うちの子が? なんで?」

「いじめられてるの?」と聞いても、子どもは何も答えません。万一いじめられていたとしても、子どもは口が裂けても親の前では告白しません。理由が判らないまま、学校に行き渋る子を前に、親はおろおろするばかり。これが一般的な不登校のケースです。

不登校の理由はフクザツ

子どもが不登校になる理由は千差万別です。「いじめ」とか「教師の対応」とか思いがちですが、そう簡単なものではありません。発達特性や、神経過敏など、いろんな要因が複雑に絡み合っていることもあります。また、本人にも理由が分からずに、ただ「疲れた」「行きたくない」ということもあります。本当のところはなかなか判らないのです。

なので、「単なるわがまま」「怠けてる」と思い、親が無理やり学校へ行かせるケースも少なくありません。でも、実はこの「無理やり」が不登校をこじらせてしまうのです。

なぜなら、不登校の子にとって、親は「最後の砦」だからです。

そもそも学校に行きたくないわけですから、その子は学校に受け入れられていません。友達にも会いたくないわけですから、友達にも受け入れられていません。では、誰がその子を受け入れてあげるのでしょう。親です。親以外に、子どもを受け入れられる存在はありません。

その親に突き放されて「学校へ行け」と言われたら、その子はどんな思いがするでしょう。誰にも受け入れられず、不登校の負い目を背負いながら、この世でひとりぼっちになったような孤独を味わうのではないでしょうか。

そうなると子どもの自己肯定感はどんどん下がり、負のスパイラルに入り込んでしまいます。

不登校は悪いこと?

さて、ここで「おはなしワクチン」の出番です。「おはなしワクチン」は、お子さんが不登校になる前に、不登校になったときの対処をあらかじめお教えしておく活動です。そう、インフルエンザになる前にワクチンを打っておく、あの予防の感覚ですね。

「おはなしワクチン」のポイントはたったの二つ。一つは「不登校は法律的に見て問題ないこと」を理解してもらうこと。もう一つは「世の中には学校以外の多様な学びの場があること」を知っておいてもらうこと。この二つを知っていれば、不登校の問題はあらかた解消するのです。

不登校は悪いことですか? 決してそんなことはありません。ただ子どもが学校に行っていないだけのこと。

たとえば「金魚」を海水で飼ったらどうなりますか。たちまちぐったりして元気がなくなりますよね。その金魚をあなたは海水に戻そうとしますか? そんなことをしたら死んでしまうかもしれません。

子どもも同じです。不登校は「学校の水が合わない」だけの状態。つまり、海水に入った金魚です。無理やり学校に戻すのがいいのか、それとも海水ではなく「淡水」の水槽を探すのか。どちらがいいかは明白ですよね。子どもにとって「水の合う居場所」を探してあげればいいのです。

保育園・幼稚園でやることの意味

保育園や幼稚園までは義務教育ではないので、学びの多様性が保たれています。たとえば、りんごの木さんのような自由な保育や、森の幼稚園、モンテッソーリやシュタイナーなど、海外の教育理論に基づいてやっているところもたくさんあります。

でも、小学校になったとたん、その多様性はすべて消え、国が決めた公教育一本に収束していきます。いま、全国には約20,000校の小学校がありますが、そのうち99%が公立で、私立が1%の200校。そして、幼稚園や保育園では可能だった多様な学びを行う学校は、無認可の学校となり、その数も%では表せないほど少なくなります。

幼稚園や保育園で保障されていた多様な学びの可能性は、小学校に上がったとたん、一気に消滅してしまうのです。そして、のびのびとした園で育っていた子ほど、公教育との落差に苦しみ、困惑してしまうのです。「おはなしワクチン」を保育園・幼稚園でやる意味はここにあると思います。

お子さんが小学校に上がる前に、ぜひ、「不登校は法律的に問題ない」こと、「多様な学びを実践している学校がある」ことを、保護者の方に知っておいてほしいと思います。

そしてまた、いまこの日本でも、サドベリー教育やシュタイナー教育、イエナプランやフレネ教育を取り入れている学校に通えることを知っておいてほしいと思います。

そのために保育園と幼稚園で「おはなしワクチン」をやります!

第一回の保育園向け「おはなしワクチン」を、「りんごの木」さんのような素敵な保育園でできること、本当に幸せに思います。この機会を与えてくださった柴田さんには心より感謝いたします。当日の模様などは、またこのブログでお伝えしたいと思います。

「勉強しなさい」は、甘やかしだと思う。

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子どもの自由にさせるのは甘やかし?

最近、たまに外に出て、サドベリー教育についての話をする機会があります。そんなとき、参加者の方から質問をいただくのですが、その中でよく出てくるのが、「そんなに自由にさせて、子どもを甘やかしているのではないか」というものです。

なるほど、サドベリースクールには先生がいません。授業もありません。子どもたちは一日中スクールに居て、好きなことをやって過ごしています。大人の大敵であるゲームですら、ここでは禁止されることがありません。こういう子どもの勝手にさせている状態が、「甘やかし」として映るのでしょう。

でも、ちょっと考えてください。なぜ子どもが自由にしていてはいけないのでしょうか。子どもを自由にさせていることを「甘やかし」と思う根拠は、どこにあるのでしょう。

そこには、「子どもは大人の言うことを聞くべき」「自由にさせてはいけない」という社会通念があるのではないでしょうか。そして、この社会通念は、「子どもは未熟者」「大人が導いてあげなければいけない存在」というところから出ているように思います。

つまり、子どもはまったく信頼されていないわけですね。子どもの好きにさせていると、とんでもないことになる、将来ろくなことにならない、そんな大人の勝手な想像があるのではないでしょうか。

自由は本来厳しいもの

自由に過ごしているといっても、サドベリーの「自由」はただの自由ではありません。放課後とか、休日とか、夏休みとか、そんなスケールの小さな自由ではなく、途方もなく大きな、太平洋のような自由です。もしかすると並みの大人なら、もてあまして苦しんでしまうほどの自由かもしれません。

そして、サドベリーの「自由」は「責任」とワンセットになっています。毎日、自分で何をやってもいいのですが、その結果は自分で引き受けなければなりません。

たとえば、サドベリースクールでは誰も「勉強しなさい」とは言いません。一日中ゲーム三昧で過ごしても、それを何日、何週間、何か月続けても、誰も何も言いません。自分がそれでよしと思ってやっているのなら、その行為は最大限に尊重されます。

「そんなにゲームばかりやっていて大丈夫なの?」これを見てそう思う人がいるかもしれません。でも、サドベリーでは「大丈夫かどうか」を判断するのも子ども自身の自由なのです。

さて、ここまで話を聞いて、それでもまだ子どもを甘やかしていると思いますか? 甘やかしているどころか、むしろ心配になってきませんか? 親としてはつい「たまには勉強でもしたらどうか」と言いたくなりますが、それもサドベリーの子たちは言ってもらえないのです。本当に厳しい自由なのです。

口うるさい指図こそ、甘やかしだと思う

こどもがゲームばかりやっていて、いつまでたっても勉強しない。そんなとき、親はつい「なにやってんの、はやく勉強しなさい!」と言いたくなります。一見、この行為は子どもを厳しくしつけているように見えますが、でも実はその正反対、甘やかしている行為だと私は思います。

なぜなら、本来子どもが責任を持つべき事柄に大人が介入して、先回りをして手を差し伸べているからです。勉強する、しないは、子ども自身が責任を持つべきもので、それで成績が下がったら本人のせいだし、いい学校にいけなくても本人のせいだし、将来就職に困っても、やっぱり本人のせいなのです。

そういう困った事態になってはいけないから、親は先回りをして、「勉強しなさい」というのでしょう。でも、それは子どもに対して厳しくしているのではなく、むしろ「甘やかしている」行為だと思います。そのように指図している限り、子どもはいつまでたっても自分の人生に責任を持たず、何か問題が起きるたびに他人のせいにしたがるでしょう。

子どもに自由を与えるのは、責任を与えることであり、子どもを信じることです。子どものことがいつまでも信じられず、口うるさく指図することこそ、むしろ「甘やかし」だと私は思います。

[連載 最終回]世界に一つだけの花

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【東京サドベリースクールの保護者になって 最終回】

世界に一つだけの花

これまで私はこの場をお借りして、東京サドベリースクールの保護者となって気づいたことや考えたことなどをいろいろと書かせていただきました。

まず、ここでお断りしておきたいのは、私は教育の専門家ではないということ。教育について学んだことは一度もなく、セミナーや勉強会に参加したこともありません。教育に関してはずぶの素人です。

ですから、ここで書いてきたことは、あくまでも私の個人的な感想にすぎません。ひとりの保護者の勝手な思いであり、「東京サドベリースクール」や「サドベリー教育」の公式な見解とは無縁のものです。

そして、私個人の子育ての中から気づいたことを書きとめたものですから、他の親御さんの教育の参考になるものでもありません。一人ひとりの子どもが個性を持っているように、一つひとつの家庭の子育ては違うものだと思っています。

「東京サドベリースクール」は、個人的には好きな学校です。すばらしい点が多々あります。でも、他の学校にも優れた点はたくさんあります。公立や私立学校、他のフリースクール等の教育を否定するつもりは一切ありません。

そして、すべてのお子さんや保護者に「サドベリー教育」が合っているとも思いません。このような特殊な教育は、幅広くある選択肢のひとつにすぎないと思っています。

ただ、個人的な感想を述べさせていただくと、「東京サドベリースクールがあってよかった」と私たちは思っています。私や家内が育った時代には想像もできなかった教育ですが、うちの子にはぴったりマッチしたようです。

SMAPのヒット曲に「世界に一つだけの花(作詞・作曲・編曲/槇原敬之)」があります。花屋の店先に並んだ花のことを歌ったものですが、あの歌詞は本当にすばらしいですね。

花屋の店先に並ぶ花は「どれもみんなきれいだね この中で誰が一番だなんて争う事もしないで バケツの中 誇らしげにしゃんと胸を張っている」

「それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのに その中で一番になりたがる?」

そして最後に歌詞はこう結びます。

「そうさ 僕らは世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」

まさに子を持つひとりの親として、心からうなずける内容です。

そう、子どもはきっと一輪の花なんだと思います。自分だけの人生を見事に咲かせる花。でも、種のうちはどんな花が咲くのか分かりません。種はみな同じように見えるからです。

もし、それがひまわりの種だったら、絶対にバラの花は咲きません。種をまいた人がいくらバラになってほしいと願っても、その花はやっぱりひまわりなのです。

子育ても同じではないでしょうか。

子ども可愛いさのあまり、親はときとして勝手に「バラになれ」なんて願ったりします。そして、バラの花の育て方にならい、種に水をあげたり栄養を与えたりします。バラになった方が華やかだし、その方が花にとって幸せに違いないと思って。

しかし、ひまわりはひまわりで、決してバラにはなりません。無理やりバラの育て方を押しつけると、枯れてしまうかもしれません。

親の役割は?

では、親はいったい何をすればいいのでしょう。子どもに対して親ができることは何なのでしょう。

植物の世界にたとえていうなら、親の果たす役割は「土壌」になることではないでしょうか。子どもが芽を出し、茎を伸ばし、花を咲かせるために必要な栄養を与える、どっしりとしたプランターになることだと思います。

人があれこれ指図せずとも、植物は勝手に育っていきます。種の中にはどんな花になるか、すでにその未来が宿っています。でも、それが何の花かは咲いてみるまで分かりません。たとえ分かっていたとしても、少なくともプランターが決めることではありません。

親は子どもが可愛い。だから、子どもに幸せになってほしいと切に願います。でも、ここで問題なのは、「幸せとは何か」ということ。

非常に深い問題なのでここでは掘り下げませんが、ひとつ言えることがあるとすれば、人の幸せは他人が決めるものではないということでしょう。幸せは究極の個人的な価値観です。

この連載で何度か繰り返してきましたが、「親と子は対等の関係」であり、「子どもを親とは独立した一個の人間」として認めるべきだというのが私の考えです。

そう思うと、子どもの幸せを決める権利は親にはありません。はたから見て苦しそうでも、たいへんそうでも、本人が幸せと思えば、それは幸せなのです。

「子どもに幸せになってもらいたい」ばかりに、子どもの人生に口出しするのは、親としての越権行為であり、かえって子どもを苦しめてしてしまうかもしれません。子どもの人生は、子どものもの。どんな花になるかを決めるのは、親ではなく子ども自身なのです。

親にできることはただひとつ、子どもがすくすくと育っていくための豊かな土壌を提供すること。

その土壌とは、心豊かな家庭のことだと思います。互いに話したり、笑ったり、ときには喧嘩したり、仲直りしたり、そんなことが普通にできる家庭のことだと思います。

その家庭という土壌に支えられ、子どもは勝手に芽を出し、茎を伸ばし、つぼみを膨らませて育っていきます。私たち親はその成長を見守りながら、「世界に一つだけの花」が咲くのを楽しみに待っていればいいのです。

おわり

(注)この保護者連載は、2016年2月から4月の間に、一般財団法人 東京サドベリースクールのホームページに掲載されたものです。子どもの年齢等の表示は2016年当時のままになっています。

 

【連載8】反抗期がない?

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【東京サドベリースクールの保護者になって⑧】

 反抗期がない?

そう、反抗期がない。

多くのサドベリースクールに通う保護者の方と話してみると、このような話題がよく出てきます。もちろん、すべてというわけではありません。全体としてサドベリーに通う子どもは反抗期が少ない傾向にあるということです。

私の息子も中学3年生の年齢ですが、いわゆる反抗期のような態度は示しません。なぜ反抗しないのか? 息子に聞いてみるとシンプルな答えが返ってきました。「反抗することがないからだよ」

この連載で何度も書いてきましたが、私は、親子は「上下の関係」ではなく、人間として「横並びの関係」であるべきだと思っています。そしてまた、子どもは親とは独立した一個の人間だと考えています。

冷たい言い方に聞こえるかもしれませんが、血は繋がっていても親子は別人です。私は息子の人生を、息子にそっくり預けました。自分で将来に責任を持つのであれば、何をやってもいい。勉強してもしなくても、自分の趣味に没頭しても、一生ゲームをやりたければとことんゲームをやればいいと言っています。

学校でも、家庭でも、何をやってもいいということになると、反抗する理由がなくなります。だから反抗しないというわけです。

そもそも「反抗期」という言葉には違和感を覚えます。「反抗」という言葉には、親が正しくて、子が間違っているという考えが前提として含まれているからです。なぜ、親の言うことが正しくて、子の言うことは間違っているのか。その根拠はどこにあるのか。「反抗」という言葉の根底には、子どもは親が管理するものという考えがあるように思います。

しかし、これはある一面で正しくもあるのです。「親子は対等」と書きましたが、それが当てはまらないケースもあるからです。

お店でいえば、店長とスタッフの関係です。何か不祥事が起きた場合、責任を取るのは店長です。だから、スタッフはある程度、店長のやり方に従う義務があります。つまり、問題になるのは責任の所在です。責任の所在がどこにあるか。それが親にある場合は、やはり子は親の言うことに従わねばならないと思います。

責任が誰にあるかが大切!

こう考えると、親の権限の範囲は意外と明確になってきます。たとえば、子どもが将来何になるか、なりたいか、といったことは、親が関与すべきことではないでしょう。子どもの人生は子どものものなので、責任の所在は子どもにあるからです。だから、勉強するかしないか、進学するかしないか、ゲームをやるかやらないか、といったことの判断は、すべて子どもにまかせればいいのです。

一方、子どもにまかせておけないこともあります。たとえば、犯罪や事故です。子どもが罪を犯した場合、未成年者なので、責任は保護者である親にふりかかってきます。喧嘩や事故で相手に怪我をさせたときも、やはり親に責任があります。子どもが窓ガラスを割っても、賠償責任は親に生じます。だから、こういうことは子どもの勝手にさせるわけにはいきません。特にドラッグや、SNSの使い方など、失敗すると取り返しのつかなくなるような件に関しては、むしろ口酸っぱく注意すべきだと思います。「うるさいな」と思われても、ここは言うべきだと思います。

それ以外のこと、つまり子どもが自分で責任が取れる範囲のことは、子どもの自由にさせたいと思います。多少失敗しても、それは人生のいい経験になるでしょうから。

私はサドベリー教育を知るまで、人間には誰しも反抗期が来るものだと思っていました。反抗期は大人になるために必要な誰もが通過するステップのひとつであり、むしろ反抗期がないことの方が問題かもしれないと。

でも、それはどうやらアインシュタインがいうところの「人が18歳までに身に付けた偏見」のひとつだったようです。

私の姪は日本生まれですが、イギリスで育ち、イギリスの大学に行きました。昔、彼女に聞いたことがあります。「イギリスの子どもにも反抗期はあるの?」

しばらく考えたのち、彼女はこう答えました。「反抗期ねぇ、あんまり聞いたことないけどね」と。

人間が成長していくための過程に反抗期が必要と考えるのは、ガラパゴス化した日本ならではの特色なのでしょうか。

 

【連載7】「子ども」という子どもはいない。

96fe18ca0ddef404a8a25d82b9097f45_s【東京サドベリースクールの保護者になって⑦】

「子ども」という子どもはいない

つくづく思いますが、子育てって難しいですよね。とくに新米の親にとっては初めてのことばかりで、どうしていいか分からないことがいっぱいありました。

うちの子の場合は夜泣きが激しくて、寝かしつけるのに苦労したことを覚えています。

ようやく寝たかと思い、ベッドの上にそろりと置くと、すぐに気がついてまた火が付いたように泣き出すのです。感受性が強く、人見知りもあって、育てるのが難しいなぁと感じていました。

それで私と家内は、子育ての悩みや迷いを解消するために、さまざまな育児書を買って参考にしようと思いました。

ところが、この育児書というものがくせ者で、読むとかえって迷いが生じてしまうのですね。なぜなら、本によってまったく正反対のことが書いてあるからです。

たとえば授乳です。おっぱいは早くやめた方がいいという本があれば、自分でやめるまであげていいという本がありました。

夜泣きについても、放っておいた方がいいという本があれば、抱き上げた方がいいというものもありました。人によって言っていることが違うのです。

そこで気づいたのは、「専門家の言うことはあくまで一般論にすぎない」ということ。

当然のことですが、専門家は世の子どもを一般化して自説を主張します。平均化された架空の「子ども」という存在を前提にして物事を語るわけです。

ところが子育てをしているこちらは、「我が子」という個別のケースで物を考えるわけです。平均化された架空の「子ども」の話が、個別のリアルな「我が子」に必ずしも当てはまらないのは当然のことなのです。

たとえば日本の女性の平均身長は158センチです。だからといってすべての女性が158センチ用の服を着ますか? 男性の靴の平均値が25.5センチだからといって25.5センチの靴を履きますか? 個別のケースに一般論を当てはめるのは無理があるのです。

こう考えると、「理想の子育て」なるものがこの世に存在しないことも分かります。理想論はあくまで一般論にすぎないからです。誰かの子育て論がすばらしいからといって、それが必ずしも我が子に通用するとは限りません。

とはいえ、そうは分かっていても、つい理想を追い求めてしまうのが親の性。どうしても他の人の子育ては気になってしまいます。

人と比べることの無意味さ

そして、他の人の子育てを気にするあまり陥ってしまうのが、「人と比べる」という愚行です。

「〇〇さんちの子はもう歩いたらしいよ」とか「言葉を喋ったらしいよ」とか、早熟な子の話を聞くたびに羨望の思いが生まれ、「うちの子はなんで遅いんだろう」と焦りが生じてくるのです。

今になって思えば、立ったり歩いたりは個人差で、一二ヶ月の違いはどうってことありません。いや、当時も理屈では分かっていたのですが、どうしても我が子を他人と比べてしまい、そのたびに(愚かにも)優越感を抱いたり、劣等感を抱いたりしたものです。

「人と比べる」ことがなぜ愚かかというと、これも平均値の話と同じです。日本には100万人ぐらい同世代の子がいるので、遅い子もいれば早い子もいるのですから、その中のひとりと自分の子を比べるのはまったく意味のないことです。「我が子は我が子」と超然としていればいいのです。

そういうわけで私たちは、息子を他人の子と比べることをやめました。人の子より遅かろうが、早かろうが、それは彼の個性だと思うようにしたのです。

ところが、世の中にはそうやって「我が子は我が子」と超然としていられない場所があります。それが学校というものでした。

学校は子どもという存在を「平均値」で考え、子ども同士を「偏差値」で比べる場所です。世界にひとりしかいない個性的な「我が子」に、「平均値」と「偏差値」を押しつけてくるのです。

先にも述べましたが、うちの子は感受性が強く、いろんなことに敏感に反応するタイプでした。反面、物事をよく考えたり、ユニークな発想をしたりという個性的な一面もありました。

この個性的な「我が子」を、「平均値」と「偏差値」が支配する学校に入れていいものかと、私たちは真剣に悩みました。彼の持っている尖った面は、平均化を重んじる学校では突起物となり、削り取られてしまうのではないかと心配したのです。

子どもは一人ひとりが違って当然。なのに学校は、自分たちが勝手に思い描く「子ども像」にすべての子を押し込めようとするのです。まるで規格からはみ出た野菜を許さない農協の野菜箱のようです。

それが嫌だったので、私たちは小学校の段階から、公的な学校教育を選ばずに、オルタナティブな選択肢を探しました。

そして結局、私の息子は、小学校は東京コミュニティスクール(TCS)というNPO法人の学校を選び、中学校からは東京サドベリースクールに通うことを決めました。

この2つの学校はどちらも「個の尊厳」を大切にしてくれる学校です。架空の「子ども」という平均値で物事を語らずに、世界にひとりしかいない目の前のリアルな「子ども」と向き合ってくれる学校です。

「先生がいない、授業がない、自由に過ごせる」等々、センセーショナルな面でサドベリー教育は語られがちですが、私は違うと思います。「サドベリー教育」の本質的な価値は、「世界にひとりしかいない自分を認めてくれる教育であること」ではないでしょうか。

この世に「子ども」という子どもはいません。一人ひとりが違う子どもです。その一人ひとりの個性を尊重するからこそ、サドベリーに通う子たちは、農家の直売所の野菜のように、でこぼこであっても味わい深く育つのです。

人間味の濃い人間に育つのです。