なぜ、心配してしまうのか?

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心配するのは当たり前?

子どもを育てていると、いろいろ心配なことがありますよね。熱を出したり、具合が悪かったりすると大丈夫かなとハラハラしたり、元気に外に遊びに行ったら行ったで、事故に遭いやしないかと心配になります。

学校に行っても、友達とうまくやっているのか、いじめられてるんじゃないか、勉強はきちんとやれているのか、成績は大丈夫かなど、心配の種は尽きません。

でも、親ってなぜ子どものことが心配になってしまうのでしょう。この基本的な疑問に意外と目が行っていないような気がします。「わが子なんだから心配になるのは当たり前」という声も聞こえますが、当たり前のことにこそ「なぜ」と目を向けることが大切ではないでしょうか。

心配するのが親心?

ここで興味深いのは、「心配」の対象となるのは「自分の子」であり、よその子ではないということ。他人の子について「あの子は心配だわ」などと言うことはありますが、そういう場合、本気で心配しているわけではありません。よその子なんだから、どうなっても仕方ないという無責任な想いが、その裏には見え隠れしている気がします。

では、なぜ自分の子は本気になって心配するのに、よその子はさほど心配にならないのでしょうか。

もちろん、いちばんには「愛情」があるからだと思います。愛がある故に、子どもに健康でいてほしい、幸せになってほしいと親は心から願うものです。

でも、それだけではない気もします。愛だけではない、何か。「義務」のような「責任」のようなものを、子を育てる親は感じているのではないでしょうか。

親として、「子が一人前になるまではしっかり育てなきゃ」という義務、もしくは責任、それが子に対する「心配」の根底にあるように思います。

愛情と義務と責任と、それが混ざり合った混然とした感情が「心配」の元であり、それを私たちは「親心」と呼んでいるような気がします。

親心の正体を明らかに!

「親心」のやっかいなのは、それが正体不明の混沌としたものだからです。先にも書いたように、親心は、愛情と義務と責任が複雑に混ざり合ってできています。だから、子どもを心配するとき、その感情が「親心」のどこから出ているのかを正しく見極める必要があります。

たとえば、子の命や健康に関わることなら、その心配は親の「愛」から生まれたものでしょう。赤信号なのに道を渡ってしまうとか、熱があるのに遊びに行ってしまうとか、こういうことは親として許すわけにはいきません。「愛」は本能的なものなので、この手の心配は「するな」と言っても無理があります。「愛」から出る「心配」は親として自然なものです。

でも、ゲームばかりして勉強しないとか、ダラダラしていてやる気を見せないとか、そういうたぐいの「心配」はどうなんでしょう。一見、子どものことを気遣っているように見えますが、その実、自分の理想形を子に押しつけているだけのことかもしれません。

よく勉強をしない子に向かって、親は「あなたのことが心配なのよ」と言います。でも、その心配は本当に「愛」から出たものなのでしょうか。「親の愛」という絶対否定しえないものによって、自分の発言(もしくは苦言)を正当化しようとしているだけではないでしょうか。

こういった心配は、「余計な心配」になる恐れがあります。子のことを想っているようで、ただ、自分の想いを子に押しつけているだけの可能性があるからです。

課題の分離をする

では、「愛」から出る「心配」と「余計な心配」はどうやって見分ければいいのでしょう。そのヒントは、アドラー心理学などでよく言われる「課題の分離」にあると思います。課題の分離とは、その問題が「誰のものか」を明らかにすること。つまり、その問題が発生したときに「困るのは誰」かを考えればいいのです。

たとえば、赤信号で飛び出す子どもを心配する場合。課題は子ども本人にもありますが、親にもあります。なぜかというと、最愛の子が死んでしまったら親も困るからです。好き勝手にさせて子を死なせてしまっていいわけがありません。

でも、ゲームばかりして勉強しない場合はどうでしょう。勉強しなくて困るのは誰でしょう。勉強せずに成績が下がり、希望の学校に進学できない、こういった場合に困るのは明らかに「子ども本人」です。子が受験に失敗しても、親は困りません。課題は子どもにあるので、親は「余計な心配」をする必要はないのです。

心配と上手に付き合う

親が子どものことを心配するのは当たり前のことです。でも、当たり前だからといって、「余計な心配」ばかりしていると、かえって子どものためにならないかもしれません。本来子が負うべき「義務」や「責任」を奪い取り、子どもの自立を妨げてしまうことがあるからです。

不登校、いじめ、ゲーム、昼夜逆転、健康問題など、子育てにはさまざまな「心配」がついてまわります。もちろん親として心配することは悪いことではありません。でも、やみくもな心配は、ときとして焦りや不安を助長するだけで、かえって逆効果になることもありえます。

その心配が「親心」のどこに根ざしているものなのか、ひとつひとつ「課題の分離」を通して、見極めてみてはいかがでしょうか。

「心配」と上手に付き合えれば、自分の不安もコントロールできるようになり、親子関係にいい影響をもたらしてくれると思います。

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サドベリーが見据える未来

9428df72ab5e7790d05b8509a8c8d966_sデモクラネットの合宿に参加して

ゴールデンウィーク前半の3日間、八ヶ岳サドベリースクールで開かれた「デモクラティックスクールネットワーク(通称デモクラネット)」の合宿に参加してきました。

デモクラネットは、先生や授業のないサドベリータイプのスクールが集まってつくるネットワーク。合宿には全国のスクールのスタッフ、保護者とメンバー、OBなどが集まりました。

今回の合宿で面白かったのは、すでに社会人となっているOB(Yくん)とゆっくり話せたこと。授業のない完全に自由な学校で育った人は、どんな感覚で学生時代を過ごし、どんなこを考えて生きているんだろうということが気になっていましたが、その謎の一端が垣間見えたように思いました。

退屈と向き合う

Yくんは小学校5年からサドベリースクールに通い、中学校3年でスクールを出ています。スクールにいた時期は、釣りが好きだったので、学校の活動費を使って釣りによく出かけていたそうです。

多くのサドベリーの生徒がそうであるように、Yくんもまた「退屈」というものにとことん向き合いました。

先生も授業もないサドベリースクールでは、1日何をすべきかを誰も教えてくれません。白紙のキャンバスのような自由がそこにあります。だから、その日何をするかは自分で考えなくてはなりません。ゼロからその1日をクリエイトする力がサドベリーの生徒には求められるのです。(これに比べたら、一般の学校の生徒は、同じ絵を描くにしても「塗り絵」をしているようなものかもしれませんね)

そんな日々を過ごしてきたYくんは、「退屈」とは何かを真剣に考えるようになりました。これからの時代、仕事や労働はITやロボットがやるようになるので、人間は暇になるに違いない。暇や退屈といかに付きあっていくかが、これからのテーマになるだろう。そんなことを考えて、「暇と退屈の倫理学」といった本を読んでいるというから、実に面白いですね。

幸せとは何か

同時に「人の幸せとは何か」といったこともYくんは深く考えているようです。

たとえば「幸せって、苦しみの対極にあるものでしょう。だから僕はわざと自分を苦しい状況に追い込んで、幸せを味わう人体実験をしているんですよ」なんてことを言うわけです。

実際には、「ごはんを食べずに修験の行者が上るような山に登り、究極の腹ペコの状態でおにぎりを食べてみる」みたいなことをやっている。まぁ、そりゃウマいだろうなぁと、話を聞くだけでも想像がつきますね。とにかく発想がユニークで笑えてしまうのです。

でも、笑いごとではなく、退屈とは何か、幸せとは何か、こういった命題はこれから間違いなく時代のキーワードになっていくはず。既成の概念にとらわれず、自由に生きている彼だからこそ、時代の行く末が見えているのですね。

簡単に生きていける時代

もう一つ彼の言った言葉で印象に残ったのは、「今の時代、生きていくのは簡単なんですよ」というもの。

サドベリーに通っていたので、Yくんは一般的な学校でやるような勉強をしておらず、もちろん高校や大学には行っていません。そもそも企業に勤めていないので、彼に学歴は必要ないのです。

じゃ、何をやって生活しているのかというと、なんとブログを書いて生きているのですね。それもどんなブログを書けばアクセス数が増えるかといったことを自分で研究して、4つぐらいのブログを回しているそうです。

なかでも、自分が趣味でやってきた釣りのブログは人気が高く、月に40万を超えるアクセス数があるとか。最近はユーチューブもやってみて、一回の投稿で数万円の収入が得られたそうです。

と、こういう話をすると、「そんな遊びみたいなことをして金稼ぐなんてロクでもない人間だ」みたいなことをいって眉をひそめる大人がいます。でも、はっきりいって、そういう人は時代遅れです。今、世の中で起きていることが見えていないだけで、見当ちがいもはなはだしいと思います。

遊びが仕事になる時代

「ユーチューバー」が子どものなりたい職業1位になったといって嘆く人がいます。「あんな遊びみたいなことをして、食っていけるはずがない。将来ロクな大人にならないだろう」と。

でも、ちょっと考えてみてください。たとえば野球はどうでしょう。見方によっては、投げたボールを棒切れで打って遊んでいるだけじゃないですか。サッカーだって同じです。芝生の上で球を蹴っているだけ。それで数億円も稼いでいるのです。

イチローや本田圭佑を指して、ただ遊んでいるだけの人、なんていう人はいませんよね。ユーチューバーやブロガーも同じです。これからはeスポーツも盛んになってくるだろうし、ゲームの達人が数億円稼ぐ世の中になってくるはずです。

AIやロボットによるオートメーション化が進めば、仕事や労働の概念そのものが変わってきます。今まで「遊び」のように思われていたものが、次々と「仕事」になっていく可能性があるのです。そして、サドベリーで「退屈」や「幸せ」に深く向き合ってきたYくんには、こういう時代の変化が手に取るように見えているのです。だからこそ、「今の時代、生きていくのは簡単ですよ」みたいな言葉が出てくるのです。

こういうことは、学校に行って、一所懸命勉強して、会社に入るしか能がなかった我々の世代には理解しがたいことかもしれません。でも、いま確実に世の中は変わり始めています。昨日の常識は、今日の非常識、それをYくんの言葉を通して学んだような気がします。

学校で教わることより、世の中で起きていることの方が、だんぜんスピードが速い。

だからこそ、自分の目でしっかり時代を見つめ、自分で考えて生きていくことが大切なんだと、つくづく考えさせられました。

夢なんて、なくても大丈夫。

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君の夢は何?

大人が子どもに聞く質問で最も多いのは、「君の夢は何?」ではないでしょうか。学校でも「僕の夢」「私の夢」みたいな作文を書かされることがありますね。

子どもは純粋なので、「野球選手になりたい!」「ユーチューバーになりたい!」「パン屋さんになりたい!」などと口々に夢を語ってくれます。それを見て大人は「微笑ましいね」なんていったりします。

たとえば「ノーベル賞」を取りたいと言った子がいるとします。「ほう、すごいね」と感心しつつも、大人は内心「君の学力じゃむりでしょ」と思ったりします。でも、面と向かって「無理でしょ」とはいいません。「すごいね」「いいね」と言いながら、心の中で「ま、所詮子どもの夢だから」といって微笑むのです。

そんなふうに思うのなら、なぜ「夢は何?」なんて聞くのでしょう。

すべての行為には意味がある

とはいえ、子どもが夢を持つことを、私は否定しているわけではありません。

「学者になりたい」「アイドルになりたい」「パン屋になりたい」「卓球選手になりたい」など、大いに結構だと思います。

問題は、多くの大人が「子どもは夢を持つべきだ」と思い込んでいることにあると思います。

たとえば、「お医者さんになりたい」といって、勉強を一所懸命やっている子がいるとします。とても素晴らしいことです。そこまではいいのですが、その子を見て「それに比べてうちの子は……」と落胆することに問題があるのです。

何の夢も持たずに、ゲームばかりしていることが悪いことでしょうか。家でぐだぐだしていることが悪いのでしょうか。私はそうは思いません。子どものすべての行為には意味があり、ゲーム三昧だったり、一日中寝てばかりいることにも、その人なりの理由があるのだと思います。

夢は本当に必要か?

結論から言うと、夢はあってもなくても、どっちでもいいものだと思います。自分のやりたいことがあって、夢に向かって生きていく。それはそれで素晴らしいと思います。でも、夢を持たず、何をしていいか分からずに、迷いの中にある状態も、それはそれで素晴らしいと思います。

「引きこもり」という言葉がありますが、私は「引き」だけは余分じゃないかと思っています。「引き」をなくせば「こもり」だけになります。悟りを開くために「寺にこもる」「山にこもる」、こういった行為は決してネガティブではなく、ポジティブなものです。

何の目的もなく、悩んでいる時期は、子どもにとって大切です。それは大人になるための「さなぎ」の時期かもしれないからです。

幼虫が「さなぎ」になった状態を見て、「何もせずにサボっている」と思う人はいませんよね。何もしていないという状態は必ずしも悪いことではありません。何もしていないように見えるだけであって、心の内ではダイナミックな変化が起きているのかもしれないのです。

結論を急がない

小学校の頃から夢を持ち、それに向かってまっすぐに生きていく人もいます。そうではなく、何になるのがいいか分からずに、迷いながら生きていく人もいます。

それは人間のタイプであり、どちらがいいと一概に言えることではありません。

人生は長いのですから、今は分からなくても、30才や40才になって自分の夢に出会い、それに向かって進んでいく人もいます。

子育てで大切なのは、「結論を急がない」ことではないでしょうか。長い人生の中で数年、停滞していたり、こもっていたりする時期があっても、何の問題もないと思います。

最悪なのは、せっかく「さなぎ」の時期にある子を、外側から無理やり突いて揺り起こしてしまうこと。子どもは自分で自分を育てていくのだから、親が余計な干渉をして、大切な時期を奪ってしまうと、すべてをぶち壊すことになってしまいます。

「夢なんてなくても大丈夫」「迷いの中にいる君も素敵だよ」

停滞ぎみな子には、そんなメッセージを送ってみてはいかがでしょうか。

その子のあるがままを認め、受け入れることが、親としてできる最良のことだと思います。

学びと本能

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子どもは学びの天才

先日、テレビでパンダのシャンシャンが母親と遊んでいる映像を見ました。そのとき改めて思ったのですが、やっぱり子どもは親の真似をして、いろんなことを学んでいくのですね。いい悪いは別にして、それは子どもに備わった本能なのでしょう。

人間の子も同じように、親の真似をして育っていきます。そして、すごいなぁと思うのは、誰に教えられることもなく、ただ真似をしているだけで、自然にいろんなことを覚えてしまうことです。

たとえば、国語である日本語も、いつのまにか喋れるようになっています。この複雑な言語を、学校にも塾にも通わずに独学でマスターしてしまうのですから、ほんと、すべての子どもは天才だと思います。

天才性の喪失

子どものこの天才性はいつ頃から失われてしまうのでしょう。

赤ちゃんは好奇心に満ちた目で周囲を見て、手当たり次第に物に触ったり、口に含んだりしていきます。そして、危険なことにもおじけずに挑戦し、試行錯誤を繰り返しながら、いろんなことを学んでいきます。

そう、誰に教わることもなく、子どもは自然に学んでいくものなのですね。そのめたに、好奇心、冒険心、探究心という「学びの本能」が備わっているのです。

でも、幼児教育が始まる頃から、子どもは大人が用意した知識を学ばされるようになります。そうして、好奇心、冒険心、探究心の3点セットは、「あれしなさい」「これしちゃだめ」の日々の命令によって、少しずつ効力を失っていきます。

やがて小学校に通うようになると、子どもは窮屈な姿勢で机に縛り付けられ、勉強させられるようになります。その頃にはもうすっかり、自ら学ぶ意欲は色あせてしまっているのです。

学びと食欲

なぜ、人は学ぶのか? それは、そこに「学びたい」という欲求があるからでしょう。なにも学びに限ったことではありません。そもそも欲求のないところに人の行為は生まれません。

その典型が、食欲だと思います。食べることは人間の本能に根ざした行為。食欲がないときは、どんなごちそうを出されても食べる気にはなれません。いくら「おいしいよ」「栄養があるよ」と言われても、食べたくないものは食べたくないのです。

そう、本能に根ざした行為の場合、「欲求」がなければ「行為」は生まれません。「学び」も同じです。「学びたい」という欲求がなければ、「学び」は始まりません。

教えないという教育

サドベリースクールには、先生がいません。授業がありません。大人から子どもに教えたり、知識を授けたりすることは一切しません。

それはサドベリー教育が、子どもに「学びの本能」があることを100%信じているからです。

満腹の子に食べさせようとしても、食べたがりません。でも、腹ぺこの子だったら、間違いなく目の前にあるものにかぶりつくでしょう。

学ぶ気のない子に、あの手この手を使って学ばせようとするのは、おなかいっぱいの子に、味付けを変えて無理やり食べさせようとすることに似ています。そもそも食欲がないのですから、どんな味付けにしても食べたがらないのは当然です。

サドベリー教育は「教えない」ことによって、学びの「空腹」を作り出します。その「空腹」が学びの「食欲」を呼び覚まし、子どもが本来持っている「学びの本能」を引きだしていくのです。

そう、すべての赤ちゃんが持っている天才的な「学びの力」。それを損なうことなく最大限に発揮させるために、サドベリースクールは先生を置かず、授業を設けていないのです。

子どもの学ぶ力を、無条件に信じているからこその「自由」がそこにあるのです。

そして、もちろんここでいう「学び」が学校の教科だけを指さないことは、言うまでもありません。

ベストの人生なんてありえない。

fb2ac7ff87eba9e107972875c6debd8f_m子どもの可能性を奪っている

サドベリースクールには、先生もいなければ授業もありません。カリキュラムもない。子どもたちには何をやってもいい自由があります。そんな状況を、こういって心配する人がいます。「何も教えないというのは、子どもの将来の可能性を奪うことになるのではないか」と。

このようにいう人の根拠は、「子どもは将来物理学者になるかもしれないし、経済学者になるかもしれないし、弁護士になるかもしれない。子どものうちにいろんなことを幅広く学んでいないと、将来その専門家になる道が閉ざされてしまう」ということにあるようです。

確かに子どもは将来何になるか分かりません。親としては、子どものために幅広い進路を想定して、若いうちにさまざまなことを学ばせておきたいと思うのでしょう。

でも、本当にそうでしょうか。そういうことなら、子どもは将来卓球選手になるかもしれないし、テニスプレーヤーになるかもしれないし、ピアニストやバイオリニストになるかもしれません。今話題の将棋や囲碁の棋士になるかもしれない。だから、卓球もテニスも、ピアノもバイオリンも、将棋も囲碁も学ばせないと、子どもの将来を奪うことになるのでしょうか。

子どもはどこまで幅広く、いろんなものを学んでおけばよいのでしょうか。

一流を夢見る親のエゴ

このような親の考えの背後には、「子が一流になって活躍してくれたらうれしい」という思いが見え隠れしているような気がします。

確かに、将棋や囲碁、卓球、テニス、スケート、その他のさまざまなプロ競技は、幼少の頃から始めないと一流にはなれないと言われています。「中学の年齢から始めてトップに行ける選手は少ない」。だから世の親たちは、「この子は何になるか分からないのだから、早いうちからいろいろやらせよう」と焦るわけです。

私も子どもが3歳ぐらいのときには、そんな風に考えたこともあります。「何でも早くやらせなきゃ」と。英語もそうです。ネイティブ並みにしゃべれるようにするためには、幼児のときから英語に親しまねばならない。12歳ぐらいで母語が決まるので、それまでには英語と日本語の両方をマスターさせてあげるべきではないか……。

「でも、ちょっと待って」と、今の自分なら当時の自分に言うことができます。「それは子どものためじゃなく、あんたの欲なんじゃない?」って。

たまたま3歳から卓球を始めて、オリンピックで活躍する選手もいるでしょう。でも、だからといって、みんなが3歳から卓球を始てオリンピックで活躍できるはずはありません。3歳から卓球をさせないからといって、それが果たして子どもの将来を奪うことになるのでしょうか。私はそうは思いません。

もちろん子どもには無限の可能性があります。これは事実です。でも、いくら無限の可能性があっても、選ぶことのできる人生はたった一つです。無限の可能性の中のどれを選べばよい結果がでるのか、実は誰にも分からないのです。

ベストの人生なんかあり得ない

未来のことは誰にも分かりません。そして、人生は一度きりしかないので、他の人生とは比べようがありません。だから基本的に「ベストの選択」というのはあり得ないと思います。「ベスト」という概念は、比較する対象があって初めて成り立つもので、一度きりの人生においてその選択がベストかどうかは永遠に知りえないのです。

子どもの幸せを思うあまり、親は子どもに「最良の人生を歩ませたい」と願います。でも、「何が最良なのか」は絶対に分かりません。だから、子どもの将来を先回りして考え、あれこれ幅広く学ばせるのはあまり意味のないことだと私は思います。

一つ言えるのは、もし「ベストの人生」があるとすれば、それは「その人生を自分で選んだ」実感があるときではないでしょうか。たとえば3歳の子がテレビで愛ちゃんを見た。「私も卓球がしたい」と言ってきた。それに応えて「じゃ、卓球やってみる」と返したとき、選んだのは本人なので、将来の結果はどうであれ、選んだ本人は「自分の人生はベストのものだった」と思うことができるのではないでしょうか。

子どもの人生は子どものもの、決して親のものではありません。人の幸せは、その人自身が決めるべきもので、親が先回りして考えるものではないのだと私は思います。

一度きりの人生、未来はどうなっていくか分かりません。だからこそ、何をするか、何を学ぶかの選択は、子ども自身にまかせたいと思います。自分で選び、歩んできた人生であれば、その結果がどうであれ、「ベストの選択ができた」と本人は思えるでしょうから。

多様な学び、子どもの姿はどこに?

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もっともだと思った息子の意見

先月(2月)の24日、25日に早稲田大学で「多様な学び実践研究フォーラム」が開かれ、私の息子(16歳男子)は「若者シンポジウム」の登壇者の一人として皆さんの前で話しをしました。

それはいいのですが、後日この教育イベントについて二人で話し合っているときに、彼から痛烈な意見をもらいました。それは「多様な学びというのに、子どもの姿がないってどういうこと?」というもの。「大人が勝手に集まって、子どものことについて話しているのっておかしくない?」

なるほどなぁと思いました。2日間、教育に関心のある各方面の方が集まって、さまざまな分科会が開かれ、ディスカッションも行われました。しかし、そこに当事者である子どもの姿はほとんどありませんでした。

子どもの意見を聞かず、勝手に大人が子どもの気持ちを推し量って、ああでもない、こうでもないと話あっている光景が、彼の目には奇異に映ったのでしょう。彼のこの指摘は、教育の問題を考えるうえで大切なことにように感じました。

子どもを置き去りにしてはいないか?

学校教育、オルタナティブやフリースクール、不登校のことなどを語る前に、やるべき大切なことがあると思います。それは当事者である「子どもの声を聞く」姿勢を持つこと。

教育のことを話すイベントに参加して、いつも聞くのは、「子どもに〇〇させるために」「子どもに〇〇してあげるために」といった言葉のような気がします。

「〇〇させる」「〇〇してあげる」はどちらも大人の勝手な思い。「子どもが主役」「子どもの権利を守る」などといいながら、無意識のうちに大人の価値観を子どもに押しつけてはいないでしょうか。

私たちは、子どもにとって何がベストかを考える前に、子どもの意見や主張をできるだけ多く聞くべきなのかもしれません。不登校の問題にしても、教育者や保護者が勝手に騒ぎ立て、当の本人の気持ちが置きざりにされていることが多いように感じます。

子ども抜きの議論は不毛

前回、東京でこのイベントが開かれたときは、会場にはもっと子どもたちの姿があったように思います。そして彼らが発言する機会もあったように記憶しています。

今回、公設民営の事例や、韓国でのケースなどの報告がありました。それはそれで非常に興味深いものでしたが、でも、自治体や民間の取り組み、制度面での議論は多くあったものの、子どもの気持や保護者の思いに寄り添った企画は少なかったように感じます。

多様な学びを議論する前に、彼らの声を少しでも多く聞いて、今の子どもたちが置かれている現状を明らかにすべきだったのではないでしょうか。

家庭でも同じです。子どもを「どこの学校に入れるか」や「通わせるか」という話が多くの家庭で交わされます。問題はこの「入れる」「通わせる」という感覚で、そこに子どもの意志が入り込む余地はありません。特に小学校や中学校の入学時には、本人の意志よりも保護者の意志が優先される傾向にあります。

子どもの人権を真剣に考えるのなら、子どもの声にもっと耳を傾けるべきだと思います。そして、子どもを「判断力のない未熟者」「弱い立場の人間」として見なさずに、独立した一個の人間として捉え、彼らの意志を尊重すべきだと思います。

次回のこのイベントには、もっといろんな立場にいる子どもたちの「本音トーク」を聞ける企画があってもいいのかなと感じました。

文部科学省の方と話してきました。

多様な学び実践研究フォーラム

2月24日(土)・25日(日)の両日、早稲田大学戸山キャンパスで「多様な学び実践研究フォーラム」が開催され、私も参加してきました。これは全国のフリースクールやオルタナティブスクールの運営者をはじめ、学校以外の多様な学びに興味・関心を持つ方が広く集まるイベントで、たぶんこの手のものでは日本最大級ではないでしょうか。

私がやっている「おはなしワクチン」の活動を一言で表すと、「不登校になって苦しむ前に、最初から多様な学びを選択しましょう」ということ。なので、サドベリー、シュタイナー、イエナプランをはじめ、フリースクール、ホームエデュケーションなど、多様な学びの実践者が集うこのイベントには、大きな関心がありました。

シンポジウムやフリースクール、オルタナティブスクールを紹介するブースがあるなか、私が最も興味を抱いたのは、各種のテーマで開かれる「分科会」でした。この中で「文科省と話そう」という分科会に参加してきたので、今回はその話をシェアします。

文科省と話した結果

このイベントに文部科学省から出てきてお話しくださったのは「初等中等教育局 児童生徒課長」の方です。

その話でまず驚いたのは、ご自身が「学校を変えたい」と切に願っているということ。不登校になるのは、児童生徒に問題があるのではなく、「学校の居心地が悪すぎる」からだという認識です。一保護者として、いま学校と戦っているそうです。

そして、次に驚いたのは、全国で一律に決まっている公立学校の始業時間。実はあれ、何の決まりもないそうです。文科省からは一切指示は出ておらず、始業時間は9時でも10時でも構わないとのこと。教室のスタイルも、机を教壇に向ける必要はなく、どんな形式で授業をやってもOKだそうです。学校側が勝手に「忖度」して、横並びの教育を行ってるのですね。

もちろん、不登校に関しても文科省は「学校復帰率を上げろ」などとは一言もいっておらず、むしろその逆で、「不登校は問題行動ではない」「学校復帰を前提にする必要はない」という通知を出しているとか。文科省は“シャワーを浴びせる”ように何度も伝えているそうですが、それを「誰かが傘で受け止めちゃってるのですかね」と苦笑まじりにおっしゃっていました。

こんな中で、最も大きく前進したのは、平成29年に、通知や通達ではなく「小学校学習指導要領」そのものに「不登校児童への配慮」という項目が入ったこと。そして、学習指導要領の解説には、はっきりと「不登校とは、多様な要因・背景により、結果として不登校状態になっているということであり、その行為を『問題行動』と判断してはならない。」「不登校児童が悪いという根強い偏見を払拭し、学校・家庭・社会が不登校児童に寄り添い共感的理解と需要の施設をもつことが、児童の自己肯定感を高めるためにも重要である」と明記されました。

また、「不登校児童の状況によっては休養が必要な場合があることも留意しつつ、学校以外の多様で適切な学習活動の重要性も踏まえ、個々の状況に応じた学習活動等が行われるよう支援することが必要である」とも書かれています。つまり、いままでのように“後ろめたい”思いをせずに、堂々と不登校状態になっていいと、文科省は学校に対して指示を出しているのです。

「文科省の職員の何割ぐらいが学校を変えたいと思っているのですか?」との質問に、坪田さんは「6割ぐらいでしょうか」と答えていました。なんと文科省の職員の半分以上が、今の学校を何とかして変えたいと望んでいるのです。

ただ、文科省がいくら言っても、なかなか変わらないのが学校というもの。だから「民間の方でここはおかしいと声を上げ、どんどん変えていってほしい」とおっしゃいました。その声や活動に対して、文科省は全面的に支援し、援護射撃をしてくださるそうです。

多様な学びの可能性について

さて、私としては、かねてより文科省の方に確認しておきたいことがありました。それは、小学校に上がる段階で「最初からオルタナティブスクールを選択できるのか」ということです。

つまり、国が指定している学校に一度も行かずに、シュタイナーやサドベリースクールに行けるのか、ということ。

「普通教育機会確保法」が成立し、不登校児童生徒には、多様な学びを受ける道が開かれました。でも、学校に一度も行かず、不登校にもならずに、オルタナティブスクールに通うことは可能なのでしょうか。

質問したところ、やはり「制度的には難しい」という答えが返ってきました。法律上は、保護者は子どもを学校に通わす義務があり、最初からオルタナティブスクールを選ぶのは義務教育違反になります。

ただし、「実態としては、そういうケースが認められていることは多々あるので、制度上は難しいけれど、やってやれないことはない」という感じでお答えくださいました。

ここからは個人的な解釈になります。

学校教育法で「保護者は子どもを就学させる義務」を負っているので、オルタナティブスクールに通いたい場合は、まず地元の小学校に行って学籍を置くこと。そのときに、校長先生と話し合いを持ち、「自分はこれこれ、こういう理由で、学校外のスクールに子どもを通わせたいと思っている」と伝えることです。

学校長がOKしてくれたら、地元の学校に籍を置いたまま行きたいスクールに通いましょう。もし、万一拒否された場合でも、実は同じ対応で大丈夫です。学校には通わずに、行きたいスクールに通ってください。30日間が過ぎれば、自動的に不登校扱いになり、そうなれば「普通教育機会確保法」の対象になります。つまり、無理やり学校に戻らず、本人の意志があれば多様な学びを受けても大丈夫ということになります。

結論をいうと、お子さんの就学時、まずは学校へ行くこと。そして、校長に「学校外の学びを選びたい」と伝えること。拒否されても感情的にならず、冷静に話し合いをもって粘り強く「お願い」すること。最悪でも30日が経てば、大手を振ってオルタナティブスクールに行けるようになるのです。

3年後に法律を見直す

2016年の年末に、衆参両議院を通過して成立した「普通教育機会確保法」は、3年後にその内容を見直すことになっています。その中には、学校外の多様な学びを受けている人への、金銭的な支援をどうするかということも含まれています。

また、この法案は当初、「多様な学び保障法案」と呼ばれ、学校外の学びを「普通教育」の中に位置づけるものでした。本来は、義務教育の中に多様な学びを組み込むような内容のものだったのです。

この法律の3年後の見直しによって、もしかするとオルタナティブスクールも「普通教育」の一部として位置づけられる可能性はあります。そうなれば、シュタイナーやサドベリー、イエナプランなどの学校に、義務教育として通うことができるようになります。

でも、実際にどうなるかは、そのときになってみなければ分かりません。だから、私たちとしては、法律に過大な期待を寄せるのではなく、どんどん民間で新しい教育を実践していけばいいのだと思います。

いま、全国で、従来の学校にはないオルタナティブな学びの場を作ろうという動きが活発化しています。そしてまた、そういう教育を子どもに受けさせたいと願う保護者も増えています。

まだ制度的には難しいかもしれませんが、でも実際に私の息子を含めて、多くの子どもたちが初めからオルタナティブな教育を選択し、のびのびと育っています。不登校を経験せずに、自由で豊かな人生を歩み始めています。

「みなさんの活動を応援しています」という文科省の言葉を信じて、ぜひとも憲法で保障されている「教育の権利」を行使していきましょう。自分のお子さんにぴったりの「多様な学び」を選択し、民間としての実績を増やしていきましょう。

もはや学校や教育委員会に、この流れを止める力はないはずです。