曲がったキュウリは嫌いですか?

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サドベリー教育とは

一般の人にサドベリー教育を理解してもらうのは、本当に難しいと思います。

先生がいない、授業がないということから、「世界一自由な学校」と呼ばれたりするのですが、その自由の奥にある教育に対する考え方を分かっていただかないと、理解は表面的なものに留まってしまいます。

では、その奥にあるものとは何か。それを説明するのが難しいのですが、今回はキュウリを用いて説明してみようと思います。

お店で売られるキュウリ

スーパーの店先で売られているキュウリは、みんなまっすぐで長さが揃っていますよね。

私たちもキュウリを選ぶとき、手に取って姿形のよさそうなものを選びます。

でも、ちょっと考えれば分かることですが、畑で採れるキュウリが全てあんなにまっすぐであろうはずはありません。見栄えの問題や流通の関係で、指定された箱に収まるまっすぐなものだけが選別され、店頭に並ぶわけです。

では、箱に収まらなかったキュウリはどうなるか。中には道の駅などで不揃いキュウリとして売られることもありますが、多くは売り物にならないということで捨てられることになります。

でも、食べてみると、曲がったキュリウは、見かけは悪いかもしれないけれど、味に遜色はありません。いや、むしろまっすぐのキュウリよりおいしい場合もあります。

指定された箱に収まらないというだけで捨ててしまうって、なんかもったいない気がしませんか?

学校という箱

もう、何が言いたいか分かりますよね。そう、今の日本の学校教育は、店で売るためのキュウリを揃える箱の役割を果たしているのです。長さの揃った姿形のよいキュウリを大量に出荷する場所。

これに比べて、子どもを指導する先生やカリキュラムが一切ないサドベリーでは、どんなキュウリが育つか予想がつかないのです。

そして、まっすぐなキュウリだけがいいと考えないのが、サドベリーの根底に流れる思想。短くても長くても曲がっていても、どんな格好のキュウリでも出荷するというわけです。

ここで誤解して欲しくないのは、長さの揃ったまっすぐのキュウリが悪いわけではないということ。そもそもキュウリを姿や形だけで判断しないというところが、サドベリーが最も大切にしている考え方なのだと思います。

子どもがその子らしく自由に育っていくために、学校にこだわることなく、いろいろな教育がフラットに選べる時代が来ることを願っています。

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心配の手放し方

5d961bfa1b3a580aed960eb24bb76c6f_s (2).jpg心配するのは親心?

8月31日土曜日、ビーンズネットさん主催で開かれた「不登校の、その先は?」というイベントで、ゲストスピーカーの一人としてお話をさせていただきました。

不登校という重いテーマを扱うお話し会でしたが、主催された金子さんご夫妻のファシリのおかげで、笑いあり涙ありの暖かい会になりました。このイベントで私がお話しさせていただいたのは、「子どもの将来」への心配についてです。

お子さんが不登校になると、どうしても先のことが心配になりますよね。学校に行かなくて大丈夫? ゲームばっかりやっていて大丈夫? 勉強しなくて社会人になれるの? このままずっと引きこもりになってしまわないか? もう、考えたら切りが無いほど、心配や悩みの種は尽きません。

こういった心配は、我が子を愛するがゆえに生まれてくるものです。子どもが可愛いからこそ苦労してほしくない、人並みの人生を歩んでほしい、そういう願いが親心から生まれてくるのです。

もちろん、私自身にも親心はあります。子どもが可愛いです。だから、よりよい人生を歩んでほしいと、かつては思っていました。でも、今はその思いを手放しました。どんな人生を歩んでも、彼の人生なので祝福してあげようと思っています。

なぜ、心配を手放すことができたのか。その理由について、「不登校の、その先は?」のイベントでお話しさせていただきました。

えこひいきをする先生は好きですか?

もし、学校に、えこひいきをする先生がいたら、あなたはどう思います? 勉強ができる子を可愛がり、できない子には冷たく当たる。運動ができる子は好きで、運動音痴の子は嫌い。

こんな先生、最悪ですよね。早く辞めてもらいたいものです。

さて、ここで質問です。では、なぜ私たちはこのような「えこひいき先生」を最悪だと感じるのでしょうか。

答えは簡単です。人間を頭の良さや運動能力で「差別」することは間違っているからです。すべての人間は平等で、その人の人権は尊重され、守られるべきだからです。

ところがです。胸に手を当ててよーく考えてみてください。私たち親はこの最悪の「差別」を行ってしまっているのです。誰に対して? 他でもない、我が子に対してです。

子どもの将来を心配するあまり、親は「えこひいき先生」と同じようなことを考えてしまっているのです。

心配という名の差別

子どもの将来を心配するとき、親はいろいろなケースを想像しますね。勉強せずにゲームばかりをやりはしないか。このまま学校を卒業できずに、ちゃんとした職業に就けないのではないか。一生引きこもりになってしまいはしないか……。

なるほど、ごもっとも。心配になる気持ちは分かります。そして、その心配が子どもを愛する親心から出てくることも分かります。でも、ですね、ここでよく考えてみてください。こういう心配の背後に、人を「差別」する思いはありませんか?

勉強をして学校を出て、ちゃんとした職業に就く人は良くて、学校を出られずにバイトで食いつなぐプー太郎みたいな人はダメ人間だとか。

結婚して子どもを産み、幸せな家庭を築けた人は偉くて、結婚できずに一人でオタクみたいに閉じこもっている人間は最低だとか。こういった人を「差別」する思いがないと言い切れますか?

そう。親が子の将来を心配するとき、実は自分で最悪だと思っていた「えこひいき先生」と同じような発想に立って、人を選別していることに、私は気づいたのです。

「人間はみな平等、職業に貴賎はない」なんて偉そうなことを言っているのに、自分の子のこととなると、そんな平等思想はそっちのけ。自分の子だけは、人よりいい人生を歩んでほしいと思っている。……最悪ですね。

無限に存在する「未来の子ども」の中から、こいつはいい奴で、こいつは悪い奴だと、無意識のうちに「選別」してしまっている。

いや、これではまるで「LGBTは子どもを産まないから生産性が低い」と言った政治家なみにひどい奴ですね。

引きこもりの人間は悪なのですか? LGBTの人は生産性がないのですか? 障害者は自活できないので存在する意味がないのですか?

そんなことまったくありませんよね。どんな人の人生も、その人が一所懸命生きている限り、すばらしく輝いているものです。

「そうか! 知らないうちに自分は人間を差別していた!」

この事実に気づいた瞬間から、私の中で、子どもの将来への心配や不安が消えました。将来、子どもがどんな人間になろうとも、受け入れる覚悟ができたからです。

引きこもりになったっていい。ホームレスになったっていい。どんな人の人生も平等で、決して差別されてはいけない。「子どもの将来の状態」によって、よしあしを決めるのはやめようと思った瞬間、ふっと肩の荷が降りるように楽になれたのです。

将来のことは誰にも分からない

明日の天気予報でも外れることはあります。一週間先の天気はもっと外れます。半年や一年先となると、予測することすら不可能です。

天気すら予測できないのです。ましてやもっと複雑な、十年、二十年先の子どもの人生が、予測できるはずもありません。

学校に行っていようが、行っていまいが、人の将来は予測不可能なのです。だから、今の時点で子どもの将来をあれこれ予測して、喜んだり嘆いたりするのはあまり意味がありません。

どんな人生を歩もうが、どんな生活をしようが、幸福であろうが、不幸であろうが、まるごと子どもの将来を受け入れてあげませんか? 一生引きこもりになろうが、ホームレスになろうが、プー太郎になろうが、オタクになろうが、どんなことになろうが、可愛い我が子なのだから、受け止めて、愛してあげませんか?

実際の世の中は差別が横行しています。障害を持ったり、生きづらさを抱えたりする人は、本当に苦労します。だからこそ、子どもを心から愛する親ぐらいは、どんな状態に子どもがなろうとも「受け入れる」覚悟を持つべきではないでしょうか。

子どもがどんな状態になっても祝福してあげられるのは、子どもを心底愛している親ぐらいのものです。条件付きの愛はやめにして、無条件の愛を子どもに注ごう! その覚悟ができたとき、不思議と子どもの将来への不安は、私自身の中から消え去っていきました。

「心配」という名の「差別」をやめよう。

今回、「不登校の、その先は?」というイベントで、このような話を私はさせていただきました。

サドベリー教育とゲーム

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ゲームばかりやっていて大丈夫?

私の息子は東京サドベリースクールに中1~中3までの3年間通いました。サドベリーは何をやっても自由な学校なので、ごたぶんにもれず彼もゲームにはまり、一時期は学校に居る時間はずっとゲームをやって、家に帰ってから寝るまでの間もゲームをやるという、ゲーム三昧の生活を続けていました。

そもそも東京サドベリースクールは住宅街の真ん中にあるので、周囲に子どもが遊べる施設がありません。駆け回るような野山もありません。ゲームより魅力的な環境があればそちらにも目が向くのでしょうが、他に遊ぶものがない環境にあると、どうしても一軒家の中に閉じこもりがちになります。

なんでも自由にやれるので、勉強だってできるし、楽器だって弾けるし、工作をしたり本を読んだり映画を観たりもできるのですが、こうなると子どもの本能なのでしょうか、なぜかゲームをやる子が多くなります。

さて、そこで出てくるのが、「ゲームばかりやっていて大丈夫か?」という疑問です。普通の人にとっては疑問で済むのでしょうが、保護者にとっては深刻な“問題”、頭痛や心配の種になります。

そして、つい先日もヤフーニュースで「ゲーム依存症患者の現実」という記事が出ていました。こういう記事を目にする度に、「うちの子もゲーム依存症になりやしないか」とひやひやしてしまうのです。

依存症になる心配はないか?

ということで、サドベリー教育の話になると、「ゲーム依存症になる心配はないのですか?」という質問をよくいただきます。

結論をいいますね。「まったく分かりません」です。はい。

多くの人は「自分が好きでゲームをやる分には、まず依存症にはなりませんよ」という答えを期待するのでしょうが、そんな無責任なことは言えません。

いままでサドベリーでゲーム依存になった子は見たことありませんが、それでもやっぱり、なりませんと断言することはできません。

でも、ちょっと考えてみてください。普通の学校に通っていたり、会社に出勤していれば、ゲーム依存になる心配はないのでしょうか。

そんなことはないはずでしょう。普通に暮らしていても、ゲーム依存になる人はなるのです。ゲーム依存とサドベリーを結びつける根拠はどこにもないのです。

リスクにどう向き合うかの問題

確かに、ゲーム依存症は深刻な問題かもしれません。なってしまうと抜け出すのにかなり苦労するようです。

でも、すべてのゲームをやっている子が依存症になるわけではありません。依存するほどはまってしまう子は、全体の中のほんのわずかです。

たとえば毎年水の事故でなくなる子どもが出てきますね。では、水の事故を心配して、子どもを海や川に連れていくことをやめますか?

お酒も楽しくおいしいものですが、それでもアルコール中毒になる人は後を絶ちません。アル中になることを危惧して、お酒をやめますか?

基本的にはゲームも同じことだと思います。絶対にゲーム依存にならないということは言えませんが、なる人間の数は極めて少ないのです。注意してやっていれば、そうそう簡単に依存症になるものではありません。

問題は、依存症のリスクとどう付き合っていくかですね。そこは自分の子どもとよく話し合って、決めていくといいように思います。

結論を急がない

どうしても子どものことが心配になるので、親はつい結論を急ぎがちです。ゲームのこともそうですが、勉強をやらなくて大丈夫か? 少人数の学校で協調性は育つのか? 体育はなくて大丈夫か? 偏った人間になりはしないか? 等々、いろんな疑問が湧き出てきます。

こういった問いに対する答えもシンプルです。「まったく分かりません」です。はい。

この世の中、問いに対して答えが出るほど単純にできてはいません。世の営みは複雑系のカオスの中にあるのです。一ヶ月先の天気も当てられないのですから、一人の人間の将来はもっと予測がつきません。

人間は一人ひとり違いますし、家庭環境も千差万別です。Aという条件を与えたらBになるという単純なものではありません。答えはCにもDにもEにもなりうるわけです。

もちろん、依存症を心配する気持ちは分かります。だからといって早急にゲームを禁じたり、時間を制限する必要はないと私は思います。

リスクはリスクとしてしっかり把握しておきながら、子どもを見守っていく、そのようなスタンスで接してみてはいかがでしょうか。

そして、もし心配なら、その心配をお子さんに正直に伝えるといいと思います。それをお子さんが受け入れてくれるかどうかは、また別の問題になると思いますが。

Learn X Creation で見えてきた、新しい組織のあり方。

logo-text-150%@3xLearn X Creationとは

8月3日(土)4日(日)の2日間、広尾学園と聖心女子大学のキャンパスを使って「Learn X Creation(ラーン・バイ・クリエーション)」という教育系のイベントが開かれました。

テーマは「創る」から「学ぶ」。詰め込み型の「教える」学習から、プロジェクト型の「創る」学習へと世界の潮流が移行しはじめている中、先生、教育関係者、保護者、クリエイターが集まって、ともに新しい教育を考え、創り上げていくことを目的として開かれたイベントです。

このイベントに、私はコアメンバーの一人として企画の段階から参加しました。一回目のメンバー顔合わせがあったのが4月25日なので、それからたったの3ヶ月で、これだけの大きなイベントを創りあげたことになります。

当日はいろいろなトラブルもありましたが、結果的に2日間で2000名以上の人が集う熱気溢れるイベントになったので、まずは大成功だったといえるのではないでしょうか。

3ヶ月前、ゼロからのスタート

正直いって、4月末に最初に顔合わせをしたときには、このような素晴らしいイベントになることはイメージできませんでした。「やります」といって手を挙げ参加したものの、何をどうすればいいか、さっぱり分からない状態からの出発だったのです。

初回の顔合わせに集まった人は、30~40名ほどでしょうか。一人ひとり自己紹介をしましたが、初めてお目にかかる人ばかりで、誰が誰だかもさっぱり分からず、印象にも残りませんでした。

4月の時点で一応、一般社団法人SOLLAという運営主体はありましたが、それとてもこのイベントを創るために立ち上げた団体で、まったくのゼロ、白紙の状態からのスタートでした。

顔合わせの日に決まったのは、イベントを運営していくために必要なチーム分けのみ。「受付」「当日運営」「ホスピタリティ」「シンポジウム」……とコアメンバーが各チームに分かれ、イベントの開催に向けて始動することになったのです。

開催までの期間はわずか三ヶ月。「ほんとにできるのかいな?」という疑問は、その時点で誰の胸の中にもあったと思います。

ボランティアキャストの募集を開始

私が所属したのは、「ボランティア募集」を行うチームでした。メンバーは私を含めて5人。学生が2名と社会人が3名の編成です。この5人で毎週1回、水曜日の9時から10時までZOOMというアプリを使って定例会議を開こうということが決まりました。

さて、しかし、そこからどうやってボランティアを募集していけばいいのか、答えはまだ誰の頭の中にもありません。とりあえず会議をして話しあいながら、ボランティアのコンセプトを固めるところから始めました。

「ただお手伝いしてもらうだけのボランティアじゃつまらないよね」「せっかく関わってもらうんだから、イベントを共に創り上げる仲間になってもらいたいな」

誰からともなくそんな意見が出て、ディズニーのキャストみたいに“主役を張れる”ボランティアになってもらいたいということから、「ボランティアキャスト」という呼称が決まりました。ボランティアキャストが主役となり、みんなの力で創りあげていく温かいイベントのイメージができあがったのです。

そこからグーグルの応募フォームを作成し、5月の中旬ぐらいからボランティアキャストの募集を開始しました。コアメンバーや関係者の皆さんに協力を仰いでSNSや口コミで拡散してもらいました。

でも実際、お手伝いしてくださる方が何名ぐらい集まるのか、初めはまったく想像もつかず、ドキドキの日々でした。大丈夫かな? 集まってくれるかな? しかし、そんな心配をよそにどんどん応募が増えつづけ、フタを開けてみたら最終的に、なんと200名近い人がボランティアキャストとなって参加してくれたのです。

この200名の有志の力が、イベントの成功に大きく寄与したことはいうまでもありません。Learn X Creationの手づくり感のある温かい雰囲気は、新しい教育に関心を寄せる一人ひとりのキャストの想いから生まれたものなのです。

オンラインで結ばれた有機的な組織

さて、イベントの内容も素晴らしかったのですが、それはLXCのホームページを見ていただくとして、今回は、私自身がこのイベントの運営に参加してみて最も印象に残ったことについて書きます。それは、このイベントを共に創り上げていった人たちの協働の素晴らしさです。

先にも書きましたが、初日の顔合わせのときに10のチームが誕生し、それぞれコアメンバーが配属されました。その後は各チームが独立して、相談しながら、イベントの開催に向けて動きはじめたのです。

とはいっても、専属でイベント創りに従事できる人はほとんどいません。コアメンバーのみんなが仕事や家庭を持つ人で、いわゆる「プロボノ」として参加しているのです。

なので、全員が集まって顔を合わせるミーティングはその後1回しか開かれませんでした。その他は、ZOOMやSlackといったアプリを使い、チーム内で連絡を取り合っていきました。

各チームはそれぞれ自立して動いていき、週に一度だけ、水曜日の夜10時からZOOMを使った全体会議が開かれました。そのときに各チームのリーダーが進捗状況を報告しあい、課題や問題があったらそれを明らかにし、その場で解決していきました。

ちなみにこのイベントで初めて私はSlackというアプリを使いました。最初は使い方が分からずにずいぶん苦労しましたが、でも、ZOOMやSlackがなかったらこのようなイベントを創り上げていくことは不可能だったことでしょう。

それぞれ役割を担った個と個がオンラインで結ばれ、チームという小さな輪を作り、そのチームとチームがまたオンラインによって結ばれ、大きな輪を作っていく。それはまるでホリスティックに営まれている人体組織のようでした。独立した細胞同士がネットワークして臓器を作り、その臓器の相互作用によって人体という全体が営まれていく。ピラミッド型のヒエラルキーが支配する今の社会の組織とはまるで違う、有機的な結びつきによって編み上げられた組織の姿がそこにありました。

年齢も、性別も、地位も、名誉も関係ない、フラットな人間同士が創りだす新しい組織のあり方を、私はそこに垣間見たような気がしました。

新しい組織の可能性

今、日本の企業のほとんどは、社長をトップに頂く重厚長大なヒエラルキー的構造を持っています。そして、学校もまたそれにならい、同じようにトップを頂く構造になっています。

このような組織は命令系統がしっかりしていて、上から下への意志の伝達はスムーズですが、反面、下から上への情報が届きにくく、組織の細部で何が起きているかを把握しづらいという欠点を持っています。

実際、近年の企業が起こした不祥事の数々は、企業内で起きている諸々の問題が上に伝わらず、どこかの段階で隠蔽されてしまったことに起因しています。下から上への風通しが悪く、大切な情報が経営を判断するトップに届かない。これはピラミッド型の構造を持つ組織の致命的な欠陥です。

また、このようなヒエラルキーを持つ組織は、時代や環境の変化に対応しにくいという弱点も持っています。組織の全体がトップからの上意下達によってしか動けないため、現場からの情報が届くまでのタイムラグが致命的な経営判断の遅れを招いてしまうのです。

このような硬直した組織と違い、今回、私が体験したLearn X Creationを創り上げていった組織のあり方は、柔軟性に富み、また変化に即応できるものでした。

なぜなら、各ワークを担う自立した個人に、判断や決定を下す裁量があったからです。全体に影響しない細々とした問題は、個人レベルで迅速に対処することができました。

もし自分の手にあまる事案があった場合は、チームの仲間にSlackで相談し、判断を仰ぐことができます。そこでも判断が下せない問題は、全体会議の場に提出して、そこでみんなで相談し、解決するという形が取れました。

小さな問題は個人レベルで対処し、より大きな問題は全体で共有して、意志決定をしていくことが容易にできたのです。

個人レベルでトラブルが発生した場合も、同じような対応が可能でした。仕事や勉強が忙しくて対処できない場合はヘルプを出して、できる人が代わりに対応していくという相互補完の関係が成り立っていました。

これはまさに人体が日々やっていることに似ています。たとえば皮膚のどこかを損傷した場合、小さな怪我であれば、近くの細胞同士が協力しあって修復を行います。しかし、もっと大きな手に負えない怪我をした場合は、情報が脳まで届き、脳はストレスホルモンなどを分泌して非常事態に対処します。

まさに、Learn X Creationを創り上げた人々がネットを使って行った協働は、人体が持つ自律的なネットワークに近い特徴を備えていました。自立した「個」が互いに結びつき、大きな全体をホリスティックに編み上げていく様子は、加速度的に変化が激しくなってきた21世紀にふさわしい組織のあり方を提示していたのではないでしょうか。

ところで、日々ネットワークの中でオンラインを通じて交流するうちに、いつのまにか顔も合わせていないのにメンバー同士の心が通じあい、太い絆で結ばれていたことに、私自身はちょっとした感動を覚えました。

4月末、初回のミーティングで会ったときには、顔も名前も分からない人々が、イベントを終え、目的を達成した後には、まるで10年来の既知の友のように親しくなっていたのです。リアルに顔を合わせたのは、わずか1、2回にすぎなかったというのにです。昭和生まれの私にとって、これは不思議な体験でした。

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ディープラーニングする組織

もちろん、初めにも言ったように、今回のイベントでは数々のトラブルや問題も生じました。イベントの運営に不慣れな、悪くいえば素人集団だったために、見落としていた部分がいくつかあったのです。一部の参加者の方にはたいへんなご迷惑をおかけしました。この点については十分に反省すべき点があると思います。

これから各チームが振り返りをして、どこにどんな問題があったかのかを明らかにしていくことでしょう。そして、そこでの反省はきっと次回の運営に活かされていくことと思います。

この点においても、私たちが編み上げた組織は、ピラミッド型の組織と違いがあります。ヒエラルキー構造を持つ巨大な組織は、反省に基づく改善を行うことが苦手です。なぜなら各役職に権威があり、その権威に余計なプライドがついてまわるからです。

フラットな人間関係から生まれる組織は、守るべき権威やプライドを持ちません。また、他人のミスを責める雰囲気もありません。それ故に、振り返りがしやすく、失敗を次の成功に結びつけやすい環境にあるのです。

私たちが創り上げたこの有機的な組織は、おそらくディープラーニング型のコンピュータに近い構造を持っているのでしょう。失敗をフィードバックすることで、自らの欠点を補い、組織をよりよくしていくことが容易にできるのです。初回は稚拙に見えた運営でも、回を重ねるごとに改善され、最終的には既存のものを打ち破るすぐれたものを生み出す可能性を秘めているのです。

明日のための振り返り

最後に、今回「Learn X Creation」というイベントに参加して私が感じたことを、まとめて箇条書きにしてみました。ここから未来の組織のあり様が見えてくるような気がします。

  1. 同じ共通の目的に向かって全員が自発的に参加した。
  2. 全員が上下のないフラットな関係で結ばれていた。
  3. 一人ひとりが専門性の高いスキルを有していた。
  4. それぞれが自分の専門性を活かし、互いに補完し合う文化があった。
  5. 誰からでも、どんなことでも提案できる許容性のある「場」があった。
  6. 自分ができることだけをやる、無理をしない、押しつけない関係性があった。
  7. 誰かがミスをしても責めない寛容性があった。
  8. 助けが必要なときには「ヘルプ」を出せる雰囲気があった。
  9. 「ヘルプ」が出たときは、手の空いている人が進んでそれに対応した。
  10. 個のレベルで手に余る大きな問題は、全体で共有し、解決していく文化があった。

フラットな関係で結ばれた個と個が有機的に創り上げていくホリスティックな組織から生まれた「Learn X Creation」。「創るから学ぶ」というテーマを通して、このイベントを創り上げたメンバーの全員が、「Learn by Creation」を体現する好機に恵まれたように思います。

ぜひ、次回もこの素敵なイベントが開催されることを望みます。

Learn X Creationに思うこと

7f75afd1edbad175069120442f27371d_l「創る」から「学ぶ」

「Learn X Creation」という教育イベントがあるのをご存じですか。読みは「ラーン・バイ・クリエーション」。8月3日(土)4日(日)の2日間、東京メトロ日比谷線の広尾駅近くにある「広尾学園」と「聖心女子大学」のキャンパスの一部を使って開かれます。いま、私はボランティアキャスト事務局の一員として、このイベントのお手伝いをしています。

このイベントのコンセプトは、「創る」から「学ぶ」。日本の教育はいまだに“知識偏重型”ですが、世界の潮流は共に何かを創り上げていく過程で学ぶ「プロジェクト型」が主流になりつつあります。で、「ラーン・バイ・クリエーション」では、さまざまなプロジェクト型の学びを集め、新しい学びを紹介したり、ワークショップを開いたり、教育関係の著名人を呼んでシンポジウムを開いたりします。大小さまざまなコンテンツが2日間にぎっしり詰め込まれています。

と書くと、いわゆる教育博覧会のように見えますが、実はこのイベント、他のものとはまったく異なる性質を持っているのです。それは「Learn X Creation」が自発的に生まれ、自律的に運営されているイベントだということです。

自分たちで創りあげていく

「ラーン・バイ・クリエーション」の発起人は3人。竹村詠美さん、藤原さとさん、千々和淳さんの3名です。まず彼らが「こういうイベントやってみたいね」と言い出したとか。果物で言えば、ここが種の中の「胚芽」にあたる部分ですね。

で、仲間に「やってみませんか」と声を掛けてみたところ、「やります!」「やります!」と手を挙げる人が続々と現れ、数十名が集まりました。ここがコアとなる「種子」の部分。そして、コアメンバーの中でチームを作り、それぞれが自分たちでイベントに向けて動きだしました。

そこから約3ヶ月かけてボランティアを募集していったのですが、なんと150名を超える人が「手伝います!」と手を挙げてくださいました。種のまわりに豊かな果肉が集まってきた感じ。そうして、当日の参加者たちを交えて、「ラーン・バイ・クリエーション」は、およそ2000名の人が集う一大イベントとして“実”を結ぼうとしているのです。

そしてもう一つ、このイベントの素晴らしいのは、誰もがフラットな関係で結ばれていること。学生も社会人も若い人も年齢を重ねた人も、それぞれ仕事などで活躍している人もいるのでしょうが、肩書きなどは一切関係なく、みんな平等な関係で、お互いに助け合って創り上げているのです。

組織のように見える形で動いているのに、上下関係がまったくない。すべてが自発的に、自律的運営されている。それぞれの個人のスキルを活かしあって、足りないところを補いあって動いている。こんな面白い組織を、いままで私は見たことがありません。

まさに「創る」から「学ぶ」を体験

“未来の教育のために”と思って参加した「ラーン・バイ・クリエーション」でしたが、まさに「創る」から「学ぶ」ことを私自身、実感させてもらっています。

というのも、「やります!」と言ってはみたものの、いざ始めてみたら、自分のITスキルがいかに低いかを思い知らされることになりました。まず、Slackというアプリ。「Snackなら知ってるけどSlackなんて知らないよ」と親父ギャグを飛ばしたい思いをぐっとこらえ、「なにそれ?」と教えてもらうことから始まりました。

思えば私の場合、ふだんは文章を書いているだけの仕事なので、ワードとメールがあれば事足ります。その間に社会は進歩し、Slackなんかをサクサク使って、互いに連絡を取り合うようになっていたのですね。気づかないうちに置いてけぼりにされていました。私のITの能力はおそらく1990年代で止まっていたのでしょう。追いつくのにかなり時間がかかりました。

ボランティアチームは、私を含めて社会人3人と学生2人の編成です。SlackやGoogleスプレッドシートの使い方がまったく分からない私に、学生さんたちはイライラすることもなく、丁寧に使い方を教えてくれ、また、私にできないことを進んでやってくれました。あちこちいじっているうちに徐々に慣れてきて、いまはSlackもだいぶ使えるようになりましたが、最初はほんと足手まといだったと思います。

それでもなんとか頑張って、今は10年ぐらい、自分自身のITの時計を進めたのではないかと思っています。(といってもまだ10年遅れぐらいでしょうが、、、)

と、ここまでやってきて、ふと気づいたのは、「あ、これこそが創るを通して学ぶこと」なんじゃないかということ。そう、まさにこのイベントを通して、自分自身が知らないうちに「Learn by Creation」をやっていたのです。

おお、なんという得した気分! “未来の子どもたちのために”と思って手を挙げて参加したのですが、なんのことはない、自分自身のよい学びになっていたのです。

本当に、これはいい経験になりました。もし、もしも、来年もこのイベントがあるのなら、みなさんにもぜひ早いうちから参加することをお勧めします。上も下もなく、みんなと一緒にフラットな関係でイベントを創りあげていくことの楽しさ、そして大変さを味わうことができますから。

「Learn by Creation」は、子どもだけでなく、大人も成長させてくれる素敵なイベントなのです。

「無理」と「ワガママ 」

f06fa0598760c8aef427dfeb3f0b0091_s「無理」ってどういうこと?

「もー、だめ」って思うこと、ありますよね。「これ以上できない」「やりたくてもやれない」。そんなとき、口を突いて出てくる言葉が「無理!」というもの。「できません!」という意味で使っています。

この「無理」という言葉、一般的にはネガティブに思われがちですが、意味を調べてみるとそうでもないのです。

「無理(むり)の意味:物事の筋道が立たず道理に合わないこと。また、そのさま。」

辞書にはこう書いてあります。そう、「無理」とは「理」の「無い」こと。理にかなっていなかったり、道理に反していたりすることを意味するのです。

なぜ、こんなことを書くかって? それはいまの日本の社会、とりわけ学校や企業のあり方が、理不尽な「無理」にあふれていると思うからです。

たとえば校則の無理

校則で髪の毛の色や長さを規定している学校がありますよね。

「なぜ、髪の毛を金髪にしてはいけないの?」

答えは「校則で決まっているから」、、、

これなんか「無理」の典型ではないでしょうか。どこにも「理」が通っていない。「決まっているから」じゃ、理由になりません。

ひどいところでは、「金髪の外国人でも黒髪に染めさせる」と言った学校があったとか。こうなると「無理」を通り越して「非道」ですね。

こういう理不尽な要求に対しては「無理!」といって突っぱねるのがいちばんなのです。

ところが、それができないのが、日本の社会の悲しいところ。理不尽なことに対して「無理」と言うと、「ワガママだ」と言われてしまいます。

そう、ここでもう一つ、ワガママについても考えてみましょう。ワガママを言うのはそんなに悪いことなの?

「ワガママ」は「我が儘」

ワガママも、言葉の源をたどれば「我が儘」、つまり「自分のままでいる」ということ。

英語でいえば「My way」とでも訳したくなる言葉ですね。

なのに、なんで「ワガママ」がネガティブワードになってしまうのか。それは、日本の社会の中に、個を殺して集団に合わせることが望ましいという雰囲気があるからでしょう。

ワガママを言う奴は和を乱す。空気を読めない奴はあらかじめ排除してしまえ。

こうして、自分の意見も思うように言えず、理のないことを押しつけられても逆らえない、窮屈な社会ができあがってしまうのです。

不登校の無理

これだけ世の中が変わってきているのに、いまだに不登校の子に対して学校復帰を促す学校があります。

「法律で決まっているから」「義務教育だから」というのは理由になりません。学校に行きたくない子を強制的に学校に戻すのは、まさに「理」のない要求であり、つまり「無理」なことなのです。

一方、不登校の子の方も、なんとなく行きたくないでは、そこに「理」はありません。なぜ行きたくないのか、行かない場合はどうしたいのかを、自分で考えることが大切だと思います。

要するに大事なのは、「理」があるかないかということ。学校に行く、行かないを感情や感覚だけで判断せずに、「なぜ行きたくないのか」「行かない場合はどうするのか」ということを、事実を見つめ、道筋立てて考えることが大切だと思います。

「無理」は人間の思考停止から生まれるもの。その行為に「理」があるのか、ないのか、それを知るためには、「考え続ける」ことが大切ではないでしょうか。

よくよく考えて、そこに正当な「理」が見い出せれば、「ワガママ」は素敵な「My way」になるのだと思います。

自分を大切にする力

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生きる力って何だ?

最近、「これからの時代は生きる力が必要になる」って言われますよね。私もよく言います。ところで、この「生きる力」って何なのでしょう。あらためて考えてみると、茫洋としていてとらえどころがありません。

「考える力」「課題解決力」「自主性」「主体性」「コミュニケーション力」「行動する力」

「生きる力」と聞いて思い浮かぶのは、ざっと上記のようなものではないでしょうか。でも、実はもっと大切なものが、一段深いレベルにあるのではないかと思います。

それは、「自分を大切にする力」。

自分のことを大事に思う。かけがえのない存在だと思う。そんな、“自分が存在することに対する肯定的な感情”が「生きる力」にとっては最も大切なのだと思います。

なぜ、「自分を大切にする力」が必要か

それは言うまでもありません。この力がないと、人間は自暴自棄に陥るからです。自分のことを大切に思えない人は、自分の命を粗末にします。他人の命も粗末にします。

そして、自分のことが大切ではないのだから、自ら向上しようとしません。すべてがどうでもよくなってしまうのです。

でも、自分のことを大切だと思っている人は違います。まず自分を傷つけません。そして、他人も傷つけたくないと思います。

そして、さらに、自分自身をよりよくしようと動いていきます。放っておいても、そういう動きをします。自分という玉を、だいじにだいじに磨いていきたくなるのです。

教育で最も必要なこと

いま世の中には、いろんな教育論があり、いろんな教育メソッドがあります。子どもたちに「考える力」を付けさせるためのアクティブラーニングや探究学習も流行っています。プログラミングや英語が必要だという人もいます。

もちろん、そういうものも大切で、あるに越したことはないのでしょうが、でも、学校でも、家庭でも、子どもたちにとって、そういったものよりも、もっと大切なものがあると思います。

それが「自分を大切にする力」を育むことです。

この自分を大切にする力は、人間が生きていく上でのすべての土台になります。先に挙げた「考える力」「課題解決力」「自主性」「主体性」「コミュニケーション力」「行動する力」は、「自分を大切にする力」から生まれてくるのです。

学校で、家庭で、すべきこと。

では、この「自分を大切にする力」はどうやって育まれるのでしょうか。答えはとても簡単で、シンプルです。「あなたが、あなたのままでいい」と認めてあげることです。

今の子どもたちは、学校でも、家庭でもネガティブな言葉を洪水のように浴びています。勉強できなきゃだめ、運動できなきゃだめ、ゲームやっちゃだめ、遊んでばっかりじゃだめ、学校に行かなきゃだめ、落ち着きがない、努力しない、考える力がない、行動力がない。

ない、ない、ない、のオンパレード。

うるせぇ、がたがたいうんじゃねぇ!

と言える子はいいのですが、真面目ないい子ほど、ネガティブな言葉を真摯に受け止めてしまい、徐々に自信を失っていきます。

いや、自信を失う程度ならいいのですが、自己否定のスパイラルに入り、自暴自棄になっていくのです。とくに不登校になって周囲から責められている子は、この傾向が強くなります。

かといって、褒めればいいというものでもありません。「○○ちゃん、できたの。すごいね」と褒めるのは、ある面で効果がありそうに思えますが、でも、できなかったときは褒められないわけなので、本当の肯定感は育ちません。

親や教育者は、もっと大きく、懐を深くして、子どもたちを余裕をもって見守る必要があるのではないでしょうか。

小さなことでいちいちお小言をいうのではなく、「人間、生きてりゃいいんだ」ぐらいのでっかい気持ちで、私は子どもを見守ってあげたいと思います。

枝葉末節はどうでもいいんです。後でなんとでもなります。それより何より、まずは「自分を大切にする力」を育むこと。

これができれば、子どもたちは雑草のようにたくましく、生き抜いていく力を獲得することができるのだと思います。

それが「生きる力」を育むということだと思います。