おはなしワクチンを始めた理由

「おはなしワクチン」が本になりました。

2017年の秋から始めた「おはなしワクチン」の活動。不登校で悩む人を減らしたいとの思いで、幼稚園や保育園、企業などに声をかけさせていただき、セミナー形式で開催してきました。

今回「おはなしワクチン」の内容を一冊の本にまとめたので、このブログでは初心に返って、「おはなしワクチン」の活動を通して「何」を伝えたいかをシンプルにお伝えします。

「おはなしワクチン」で伝えたいことはただ一つ。「不登校のどこが悪いの?」ということ。

不登校は、子どもが学校に行っていないだけのこと。誰の邪魔もしていませんし、迷惑もかけていません。人様に対して悪いことはまったくしていない。なのに、なぜ不登校が問題になってしまうのか。

よくよく考えてみたら不思議なことですよね。学校に行くか行かないかは当事者の問題のはずなのに、なぜ世間がそれを問題視してしまうのか。

自分の子どもがオルタナティブスクールに通っていたので、いろいろ調べてみました。すると、社会の中にひとつの大きな勘違いがあることに気づいたのです。それは「日本の子どもの全員が、学校に通わなければいけないと、みんなが誤解している」こと。

学校の先生も、校長先生も、お父さんやお母さんなどの保護者も、おじいちゃん、おばあちゃんも、近所のおじさん、おばさんも、そして子ども自身も、みーんな、「子どもは学校に行かなくちゃいけない」と思い込んでいる。

ああ、そうなんだ。ここに大きな勘違いがあるんだ。と気づいたのです。

不登校は何の問題もない!

調べてみると、「子どもは学校に通いなさい」なんて法律のどこにも書いていません。なのに、「子どもは学校に通わなくちゃいけない」とみんなが信じてしまっている。

「学校に行かない」というだけの単なる個人の問題が、社会の問題になっちゃっている。本来「何の問題もない」はずの不登校が問題になってしまっていることが分かったのです。

誤解だったら、誤解を解けばいいんじゃないか? というわけで、さらに詳しくいろいろ調べ、分かったことをお伝えするために、「おはなしワクチン」の活動を始めました。

世間が問題視するから、問題になってしまう

セミナーだったら約90分。本だったら約200ページの「おはなしワクチン」。それで私がお伝えしたいのは、以下の4点です。

①不登校はなんの問題もない。

②問題にしてるのは社会のほう。

③親は視野をひろげてほしい。

④子どもをリスペクトしてほしい。

とってもシンプルで、簡単なことです。ただ、シンプルで簡単なだけに、腑に落ちるまでには時間がかかることもあります。だから、200ページも長々と文章を書きました。

でも、この一冊を通して読んでいただければ、「不登校は何の問題もない」ということが分かっていただけるはずです。そして、「不登校は何の問題もない」ということを理解していただければ、その先の未来が開けてくると思うのです。

本来、一人ひとりとお話しをしながら、本を手渡していきたかったので、出版社からとか、アマゾンのKindleでとか、そういう出版の形態は取らず、私と一緒に不登校の問題に取り組んでいる「びーんずネット」さんという団体から出版させていただくことになりました。

ですから、本屋さんでは買えません。アマゾンでも買えません。「おはなしワクチン」を読んでみたいと思う方は、以下に紹介する「びーんずネット」さんの購入サイトからお申し込みください。よろしくお願いします。

https://beansnet.thebase.in/items/33139632

夢なんて、なくていい。

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人生に「夢」は必要なの?

よく、子どもに「夢を持ちなさい」という大人がいます。小学校でも2分の1成人式とかいって、あなたの夢を書きなさい、みたいなことをやる。あれ、何の意味があるんでしょうね。

よく解釈すれば、夢はその人の人生を豊かにする原動力になります。本田宗一郎の有名な言葉「The Power of Dreams」なんか、その好例。

でも、悪くいえば、夢はドッグレースの犬の前にぶら下げる獲物。馬にとってのニンジンみたいなものです。

夢を持つのが無意味というつもりはありません。ただ、この世の中には「夢がない」「見つからない」といって悩んでいる子もたくさんいます。

本当に、人は夢を持つ必要があるのでしょうか?

大人の勝手な思い込み

「君の夢は何?」「将来何になりたいの?」大人は気軽に子どもにたずねます。まるで明日のお天気でも聞くように。

「お医者さんになりたい!」「美容師になりたい!」「宇宙飛行士になりたい!」子どもは無邪気に答えます。そして、大人はしたり顔で、満足そうにうなずきます。

でも、このやりとり、なんかちょっと気持ち悪くありませんか。子どもの夢を聞くことに、何の意味があるのでしょう。みんなが夢を持ち、自己実現に向かって努力する必要が、果たしてあるのでしょうか。

「夢を持つのはいいことだ」という大人の勝手な思い込みが、「夢が見つからない」「やりたいことがない」という子の悩みを生んでいるとしたら、それは本末転倒だと思います。

夢が人を苦しめることも

もちろん、夢を持つことはいいことです。夢のある子は、思いっきり夢に向かって生きればいい。

でも一方で、夢は必ずしも叶うものではないという現実があります。錦織圭に憧れてテニスに打ち込んでも、必ずしも錦織圭のようになれるわけではない。

人生の成功者はわずか数パーセント。夢に向かって生きていく多くの者は、途中で脱落し、挫折し、目的の地にたどりつくことはできません。夢がかえってその人を苦しめることもあるのです。

夢を持つことは、それほどいいことなのか? 私にはよく分かりません。夢は持ってもいいし、持たなくてもいい。本来、その程度のものではないでしょうか。

「夢に向かって生きる」「キラキラした目」みたいなのは、大人が勝手に創造した子どもの理想像。もし、そんな大人の理想像に振り回されてしまう子どもがいるとしたら、本当に申し訳ないことです。

「やりたいことが見つからない」「私には夢がない」といって焦ったり、悩んだりしている子には、「夢なんてなくていい」ということを、きちんと伝えてあげたいと思います。

夢より、好きなことを。

「夢」と似たものに「好きなこと」があります。私はどちらかというと、「好きなこと」という考え方の方が好きです。

「夢」は実現を強いてくるけど、「好きなこと」は嫌いになったらやめればいいから。「夢」より緩くて、自由で、広がりがあって、より自分らしさが表せるような気がします。

「夢」がなくても、「好きなこと」をやればいい。「好きなこと」がなければ、何もしなければいい。「何もしない」ことも「好きなこと」の一部だから。「好きなこと」にはそんな寛容な広がりがあります。

少子化で、とかく大人の目が子どもに集中しがち。それによって余計な大人のお世話が増えているように感じます。「夢を持て」もそんな余計なお世話のひとつではないでしょうか。

もっと自由に、大きな海で泳がせるように、広い心のなかでのびのびと子どもが育っていく環境が、世の中に増えていくことを願っています。

アフターコロナの学校に思うこ

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コロナで見えてきたこと

前回このブログを書いたのは、3月17日のこと。およそ3ヶ月もの空白ができてしまいました。なぜ、こんなに書かなかったか。理由は簡単、書く気がしなかったからです。

「おはなしワクチン」は、不登校という概念をなくすことを目標にやっています。子どもは学校に行かなくたっていいじゃないか。行かないことのなにが悪い? 学校行かなくてもちゃんと大人になっている人、いっぱいいますよ。そういうことをお伝えして、偏った学校神話を崩すためにやってきました。

でもね、コロナであっさりと、それが実現しちゃったんです。つまり、みんな不登校になっちゃった。だから、いまさら「不登校でも大丈夫」なんていうことを書く必要がなくなってしまったのです。

ただ、ただですね、コロナで自粛休校している間に、見えてきたこともあります。それは、「日本の教育はやっぱり変わらないなぁ」というちょっと残念なこと。なぜなら、みんなが「学習」や「学力」のことばかりを気にしていたからです。

「学力」ばかりがそんなに心配?

そう、学習の遅れをどうやって取り戻すか。オンライン授業のやり方。IT環境の違いによる学習格差。大学入試の時期。いっそ9月入学にする? みんなが話していたのは、そんなことばかりでした。

まぁ、それも大切だとは思いますが、でも、ちょっと待ってよという思いもあります。せっかく、コロナで全員休校になったんだから、もっと大切なことを話そうよ。

「そもそも学校に行く必要あるの?」とか、「いまの学校のあり方でいいの?」とか、深い部分での議論が始まるかと思ったら、あいかわらず心配の種は「学力」でした。

ちょっとがっかりです。

きっとコロナが終わって、みんな学校復帰したら、ぜーんぶ元に戻っちゃうんだろうな。せっかく日本の教育を大改革するチャンスだったのに、このままではみすみす見逃してしまうでしょう。

学びの本質は学力ではない

いつまで日本の学校は、教科学習の学力ばかりにこだわるのでしょうか。学びにとって最も大切なのは、「学びたい心」を育てることであって、学力を向上させることではないはずです。

学びは、子どもだけではなく、大人にも必要です。一生学び続けたくなる「心」に火をつけること、それが学校の役割であって、知識を詰め込んだりスキルを付けたりすることではありません。

そして、学びというのは、必ずしも教科の学習に限ったものではありません。絵を描いたり、ゲームをしたり、料理をしたり、旅をしたり、作物を育てたり、動物をかわいがったり、ぼーと考え事をしたり、自分の好きなことに夢中になる、そのすべてが「学び」であって、教科の学習はそのなかのひとつにすぎません。

そう考えれば、学校に行こうが、行くまいが、すべての人が「学び」を続けることができる。そういう観点から、いまの日本の教育や学校を見直してほしいと思っていたのに、残念ながらそういう話は出てきませんでした。

というわけで……

今の学校が変わらないとなると、やっぱり「おはなしワクチン」の活動は続けなくてはと思います。不登校という概念がなくなったら、活動はやめようと思っていたのですが、この分では当分の間期待できそうにありません。

コロナの間にセミナーやお話会は一切やっていませんでしたが、また安心して人と会えるようになったら、ぜひ「おはなしワクチン」を再開したいと思います。

そして、いま、「おはなしワクチン」を書籍化することも考えています。一緒に活動している仲間の「ビーンズネット」さんと一緒に出版しますので、本ができたらお知らせいたします。もうしばらくお待ちください。

というわで、「おはなしワクチン」を再開しますので、よろしくお願いします。早くみなさんと会いたいですね。

「人材」から「人物」へ

a84b06b5abb65c26795a7a0f1e5044c4_s「人材」という言葉への違和感

学校や企業の理念などにはよく「人材」という言葉が使われます。「優れた人材を育成する」とか「社会に貢献する人材を輩出する」などといった表現です。

でも、かねがね思っていたのですが、この「人材」という言葉はどうなんでしょう。なんか人を建築資材みたいに扱うようで、あまりいい印象がありません。

「人材」という言葉を聞いて思い出すのは、チャップリンの「モダンタイムス」という映画。あの中で、巨大な機械の歯車の中にチャップリンが取り込まれていくシーンがあります。

そう、国家や企業などの組織を構成する歯車の一つになるというイメージが「人材」という言葉にはつきまとうのです。

人は材料ではない

「人材」という言葉がいつ頃から日本で使われるようになったのかはよく分かりません。でも、個人的には明治時代からではないかという気がします。

明治19年に出された「学校令」から始まる日本の教育制度は、まさに国家の部品、「人材」を育成するために整備されたものです。

また、明治時代は大量生産、大量消費へと向かう近代の時代でもありました。「人材」という言葉の中には、人間を量産し、消費するイメージも含まれています。

そう、まさに社会によって使い倒される大量消費財、それが「人材」なのです。

ジョブズは優れた人材?

たとえばアップルの創業者のスティーブ・ジョブズを思い浮かべてみてください。スティーブジョブズは優れた「人材」でしょうか。

あるいはホンダの創業者の本田宗一郎や松下幸之助も、優れた「人材」と呼べるでしょうか。こういう人々を「人材」と呼ぶのには、ちょっと抵抗がありますね。なぜでしょう。

たぶん、これらの人々は他の人間と交換不可な唯一無二の存在。だから「人材」という言葉がそぐわないのでしょう。

では、こういう人たちをなんと呼ぶか。

たぶん、彼らは「人材」ではなく「人物」と呼ぶにふさわしい人間なのでしょう。

そう、「人物」という言葉には、他と交換不可な“かけがえのなさ”を感じさせるものがあります。

「人材」から「人物」へ

でも、ちょっと考えてみてください。そもそも人間は他の誰かと交換可能なのでしょうか。たとえば、あなたのお子さんを他の誰かと取り替えることはできますか?

できませんよね。そう、ジョブズや本田総一郎に限らずとも、人間はどんな人も他の人物とは交換不可な“かけがえのない”存在なのです。

「人材」という言葉は交換可能な部品を想起させます。しかし、「人物」という言葉にはそれがありません。人としての温もりや、息づかい、性格の善し悪しや、スケール感などを「人物」という言葉が含んでいるからです。

だから、教育関係のみなさんにお願いがあります。ぜひとも「人材」ではなく「人物」を育てるような教育を目指していただきたい。

長所も短所も含めて、人間をまるごと“かけがえのない”存在とみなし、その人らしさを伸ばしていただきたい。

人間を大量消費する「人材」の時代は、20世紀とともに終わりました。近代からポストモダン、ポストポストモダンへと向かっていく21世紀は、「人材」ではなく「人物」の時代だと思います。

「人材育成」から「人物育成」へ。

いま、教育はシフトしていく時期に来ているのではないでしょうか。

上下をつけない生き方

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落ち込むということ

人生にはいろいろなことが起きますよね。いいこともあれば、悪いこともあり、とくに悪いことが起きると、どーんと落ち込んでしまいます。

たとえば受験。希望校をめざして一所懸命勉強してきたのに、残念ながら不合格になってしまった。そうなると、これまでやってきた努力が水の泡になってしまったような感じがしてショックを受けます。

就職の失敗や失恋なども同じでしょう。まず、なりたい自分がいて、そのなりたい自分になれなかった現実と向きあわざるをえなくなる。やっぱり落ち込みます。

この「落ちる」という言葉は、そのときの感覚から生まれてくるものだと思います。うまく行ったときは「有頂天」といってふわふわと上に昇るような感覚。逆に失敗したときは、ずーんと底なしの沼に沈んでいくような重たい感覚を味わうのです。

いいときは「上へ」、悪いときは「下へ」、状況によって上昇と下降という感覚が生まれるのですね。

でも、本当に上下なのか

この物事の成否による「上下」は人が感じている感覚なので、いたしかたないところもありますが、でも時間軸を長くして考えると、本当に「上下」なのかという疑問は残ります。

たとえば、受験です。希望校に受かって喜び勇んで通った学校が、自分の想像とはまったく違う最悪の環境だったということはありえます。

逆に、不合格の結果通い始めた学校が、思いのほかよかった。あるいは気の合う仲間ができて、すごく楽しくなったということもありえます。

恋愛だってそうです。最悪と思われる別れを経験した結果、とっても素敵な人と出会えることもあります。

今更いうことでもないのでしょうが、昔から「禍福はあざなえる縄のごとし」というように、物事の善し悪しはその場で決まるものではなく、長い目で見れば、悪いこともまたよかったということはいくらでもあるのです。

そこで改めて、物事の結果から生まれるこの「上下」の感覚は、本当に「上下」なのかと問い直してみたくなるわけです。

上下ではなく、左右と考える

受験や就職、恋愛もそうですが、このような物事の結果は、人生の上下を分けるものではなく、単なる「分岐点」にすぎないのだと私は思います。

「上」か「下」ではなく、「右」か「左」かということ。そう、「上下」には「善悪」の感覚がつきまといますが、「左右」にはそもそも善悪がないのです。

私の息子は今年受験をしました。一応希望する大学があり、AO入試の書類選考は通過したのですが、面接で「不合格」になりました。で、落ち込むのかなと思ったら、「落ちてよかった」と言いだしたのです。

「面接に落ちたことで、自分は大学に本当に行きたいのかを問うことができた」「その結果、今はまだ大学に行く時期ではないという結論が出た」とすがすがしい顔で語り、受験そのものをやめてしまったのです。

彼の中では、大学受験の結果は「上下」ではなく、あくまでも「左右」だった。大学に行く行かないを、右に行くか左に行くかぐらいのフラットな感覚で受け止めているのだなと思いました。

人生は一度しかない

これも当たり前のことですが、人生は一度しかないので、結果の善し悪しを後から検証することは不可能です。

右に行ったら行ったなりの、左に行ったら行ったなりの人生がある、ただそれだけです。どっちが良いか悪いかは比べようがありません。

そう考えると、人生の分岐点においてどんな結果が出ても、とくに落ち込む必要のないことが分かります。「上か下か」と思うから落ち込むわけで、「右か左か」と思えば、どちらの結果が出てもフラットに受け止めることができるからです。

不登校の問題にも私は少し関わっていますが、学校に行く行かないかも、結局は同じことなのかもしれません。単なる分岐点のひとつ。人生の長い目で見れば、学校に行くか行かないかは「上下」ではなく「左右」の選択にすぎないのです。

人生から「上下」の感覚をなくすと、だいぶ生きやすくなると私は思っているのですが、あなたはどのように思われますか?

子どもを信じるって、どういうこと?

19e84b4068971a46f64f9795becb2a5a_s「子どもを信じる」とは?

「子どもを信じる」とよくいいますよね。私もときどきこの言葉を使います。でも、この言葉って、けっこう奥に深いものが潜んでいると思うんです。

なぜなら、「子どもを信じる」ということは、その裏側に「子どもを信じていない」という親の気持ちがあるからです。

信じていないからこそ、あえて「信じる」と言うことになる。つまり、「子どもを信じる」という言葉の奥には、圧倒的な子どもへの「不信感」や「疑い」があるのです。

不信感の正体は?

子どもへの「不信感」や「疑い」の正体は何か。たぶんそれは、「親の思いどおりに子どもは動いてくれない」ということでしょう。

たとえば、ゲームばかりしてなかなか勉強してくれない子がいるとします。親はゲーム三昧の子を見てやきもきします。

でも、口うるさく指図すると、子どもはかえってへそを曲げるので、逆効果だと分かっている。だから、口は出さずに、いつかはきっと自分で気がついて勉強してくれるはずだと信じたくなるのです。

つまり、「信じる」という言葉の背後には、「こうなってほしい」という親の欲望があり、それに向かっていつか子どもは動きだしてくれるはずだという期待が働いているのです。

さて、このような「不信感」や「疑い」から生まれた「信じる」は、本当に子どもを信じていることになるのでしょうか。私はちょっと疑問に思います。

「信じる」とは「委ねる」こと

初めに「こうなってほしい」という親の欲求がある。その理想に従って子どもが育ってくれるように「信じる」のは、本当に「子どもを信じる」ことではありません。

なぜなら、初めから「結論ありき」だからです。そう、多くの場合「子どもを信じる」というのは、「親の言う通りになってくれよ」という気持ちの現れにすぎません。

「人を信じる」ということは、「望ましい結果」を相手に押しつけることではありません。「結果」を含めたすべてを相手に「委ねる」こと、これが本当に「人を信じる」ことだと思います。

つまり、「〇〇なってほしい」「〇〇してほしい」という気持ちを持っているうちは、子どもを信じていることにはなりません。そのような欲望をすべて捨て去ったとき、初めて親は本当に「子どもを信じる」ことができるようになるのです。

待たなくていい

こういう観点から「子どもを信じる」ということを考えるとき、よく言われる「動き出すまで待つ」ということにも違和感があることが分かってきます。

「いつになったら学びだすの?」「いつになったら動きだすの?」という思いを胸に秘めたまま、何も言わずに「待っている」のは、子どもを信じていることにはなりません。

本当に子どもを信じているのなら、すべてを子どもに委ねているはずですから、もはや「待つ」という行為も必要ないのです。

親があるべき理想の姿を思い描き、それに従って子どもが動き出すのを「待つ」のは、まだまだ子どもを信頼できていない証拠だと思います。

子どもは鋭いので、そういう「待ち方」をしても必ず見破られてしまいます。「待つ」行為の裏側に子どもに対する「不信感」や「疑い」があることが見透かされてしまうのです。

「待っている」うちは、まだまだ「子どもを信じる」ことにはなりません。「あなたの選択のすべてを信頼し、肯定します」という覚悟が親の中に生まれたとき、初めて「子どもを信じる」という親の言葉を、子どもは信じてくれるのです。

そうなれば、もはや「待つ」行為は不要になります。心の底から子どもを信じ、ただ見守るだけになるのです。

自分の幸せを決める力

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子どもに身につけてほしい力

もし、子どもに一つだけ身につけてあげられる力があるとしたら、あなたは何を身につけてあげたいと思いますか?

明晰な思考力ですか? 驚異的な記憶力ですか? 超人的な運動能力ですか? 他人を思いやる力ですか?

この問いに対する答えは人それぞれで、たぶん一つではないと思います。そして、ある意味どれも正解だと思います。

私の場合でいえば「自分の幸せを決める力」、これを子どもに身につけてあげたいと思います。なぜなら、この力があればどんな境遇にあっても「自分の幸せ」を探していける人になれると思うからです。

人生、いろいろありますよね。泣きたいときや逃げ出したいときもあるでしょう。出口の見えない真っ暗なトンネルの中にいるような孤独を味わうこともあります。でも、どんな状況にあっても「自分の幸せを決める力」がある人は、少々のことではへこたれないと思うのです。

ところで、幸せって何?

私が親として子に望むのは、とにかく「幸せになってほしい」ということ。それ以外は望みません。

勉強して、いい学校に通って、いい会社に入って、人並みに結婚して、子どもを産んで、温かい家庭を築いてほしいなんて、まったく思いません。

もちろん、そうなってくれてもいいのですが、「そうなってほしい」とは思いません。理由は簡単です。その状況が自分の子にとって幸せかどうかが分からないからです。

もし、息子がLGBTのどれかであれば、人並みに結婚してほしいという親の願望は苦しみしか与えないでしょう。娘が子どもが産めない体だったら、孫の顔が見たいという親の欲求は悲しみしかもたらしません。

子どもの人生は子どものもの。「何が幸せなのか」を決めるのは子ども自身なので、親が勝手にそれを決めるのは論外だと思います。

ただ、一つだけ子に求めることがあるとすれば、それは「何が自分にとっての幸せか」を決める力を身につけてほしいということ。この力さえあれば、人は自分の人生を幸せな方に導いていけると思うのです。

幸せを決める力を身につけるには

ところで、「自分の幸せを決める力」は、簡単そうでなかなか身につくものではありません。「何が幸せか」を決めるためには、自分自身が何者であり、人生において何がしたいのかについての明快な答えを持っていなくてはならないからです。

そのためには、子どもが自分自身について十分に考える時間が必要だと思います。日々の勉強、受験への備え、部活動、習い事、あれもこれも大人から押しつけられることで隙間なく埋まっている日常では、なかなかそこまで考えがまわりません。

子どもに自分自身について十分に考える「余白の時間」を、親としては確保してあげたいところです。

特にお子さんが不登校の場合、部屋に一人で閉じこもっている時間はまったく無駄ではありません。「自分はこのままでいいのか」「よくないとすればどうすればいいのか」など、最も悩んでいるのは本人のはずだからです。

こういう時間は本当に貴重で、人を豊かにしてくれます。だから、学校に行かずに「子どもが何もしない」ことをどうか責めないでください。自分一人で悩む姿を肯定してあげてください。

地中に潜っている時間の大切さ

地面にまいた種は、すぐには芽を出しませんよね。見えない地中にあって、少しずつ力を蓄え、やがてある日地面に顔を出して、茎を伸ばし、立派に葉を茂らせていきます。

さて、植物の種は地中にあるとき、無駄な時間を過ごしているのでしょうか。とんでもありません。まったくその逆で、地中で過ごしている外からは見えない時間こそが、植物を根を張る強い存在へと育てているのです。

不登校の時間も同じだと思います。一見すると学校に行かず、ぶらぶらと無駄に過ごしているように見えますが、その時間こそが子を強く、豊かに育んでいくのだと思います。

植物でいえば種の時代、昆虫でいえばサナギの時代、外からは変化が見えず、ただこもっているだけのようにしか見えない時間こそが、人間の成長にとって大切なのです。

そうして悩み、苦しんだ果てにつかんだ「自分の幸せを決める力」は、その後の子どもの人生を、豊かで実りあるものにしてくれるでしょう。そう私は信じています。

「自立させる」は間違っている

dd78775f5fefd5ab703bf3fb19b8ee3e_s「自立」の勘違い

「自立」という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべますか。

自分で何でもできること。自分の足で立って歩くこと。自分で自分を律せられること。まぁ、ざっとこんな感じではないでしょうか?

たとえば、赤ちゃんであれば「おむつが取れること」「お着替えができるようになること」

小学生であれば「明日の用意ができること」「忘れ物をしなくなること」などが思い浮かびます。

これ、間違っているわけではありませんが、でも、ちょっと「自立」という言葉への誤解があるように思います。

「自立」の奥にあるもの

私見ですが、「自立」とは、自分で何でもできるようになることではないと思います。

「〇〇できるようになる」は、あくまでも自立した結果として起きる現象であり、表層的なものにすぎません。じゃ、自立とはなにか?

私は「自分で自分の人生を生きている感覚を持つ」ことが自立だと思っています。

自分の人生が自分のものであること。だから、自分自身を大切にしたくなる。そして、自分のやりたいことをやれるように本人が動いていく。その結果として、いろんなことが自分でできるようになる、それが本当の「自立」だと思います。

子どもが自立するためには

だから、なんでも「自分でやりなさい」といって、手を貸さないようにしても、それが即自立につながるとは限りません。

そもそも「自立させよう」と思うこと自体に無理があります。なぜなら、自立は自分から「する」ものであって、「させる」ものではないからです。

本来、子どもはしかるべき時期が来れば勝手に自立すると思います。だから、親が意識して、無理に自立を促す必要はないのです。

ただ、親が自分の価値観を押しつけたり、必要以上に指示したり、あるいは子どもの先回りをして手を出してしまうと、自立は遅れるかもしれません。「自分が自分の意志で生きている」という感覚を子どもが持ちづらくなるからです。

子どもと対等に接する

子どもが自立するために必要なのは、他者とは違う「自分」という存在があることを自覚することです。そのためには、親がまず、子どもは自分とは違う一個の人間であることを認め、対等な関係で接することが大切だと思います。

どんなに年齢が低くても、子どもは自分の意志を持っています。いや、年齢が低いほど強い意志を持っているかもしれません。とにかく、その意志を尊重することです。

子どもの意志を否定して、親がなんでも命令してしまうと、子どもの中で「自分=親」の一体化が進み、子どもの自立は遅れます。

逆に、常に対等に接していれば、子どもは「親は自分とは別の人間」だと思うようになります。自分の外に親という他者が存在していることを知ることで、子どもは「自分」の存在に目が向くようになるのです。

対等とはどういうことか?

「でも、子どもがわがままを言ったらどうするの? それでも子どもの意志を認めろというの?」

子どもとの対等性を口にすると、よくこのように反論されます。でも、考えてみてください。子どものわがままを許すのは、決して対等な関係ではないでしょう。どちらかの意志が一方的に通るような状況は、対等ではなく、どちらかが相手を支配している関係です。

対等な関係を保つためには、子どもの主張を「わがまま」と決めつけないことが大切です。まずは相手の言葉に耳を傾けましょう。もしかするとその主張の裏側には正当な理由があるかもしれません。

そして、もうひとつ大切なのは、親自身も自分の意見を主張することです。命令や指示ではありません。あくまでも一個の人間として、「自分はあなたにこうしてほしい」と理由を言って主張するのです。

子どもを一人の人間として認め、相手の意見に耳を傾ける。そしてまた、親も一人の人間として、自分の意見を主張する。この相互の対等な関係を続けるうちに、子どもは親を自分の外にある「他者」として認めるようになり、自分の中に親とは違う「自己」があることに気づいていくのです。つまり、それが自立というものです。

その結果、子どもは自己の利益につながることを自ら進んでやるようになっていきます。これが真の「自立」なのだと思います。

一所懸命、生きる

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年の始めに思うこと

2020年、明けましておめでとうございます。ずっと先のことだと思っていたオリンピックイヤーが、あっという間に来てしましましたね。時の経つのは早いものです。

年の終わりに家族みんなで話し合ったのは、「今年もなんとか生きてこられてよかったね」ということ。そう、ここでこうして文章を書いていられるのは、自分がなんとか生きてこられたおかげです。これだけでも十分幸せだったと思います。

そして、年の初めに立てた誓いも同じもの。「今年もなんとか生きてこられてよかったね」と一年の最後に家族みんなで言いあえるといいね、ということです。

どんな年になるんだろう?

「どんな年にしたいか」という思いはあまりありません。自分はフリーの立場で仕事をやっているので、毎年毎年、生活していけるだけの仕事が来るかどうか分からないからです。

だから、「どんな年になるんだろう」とは思っても、「どんな年にしよう」とか「したい」とかは思いません。

人生、なるようにしかならないので、向こうからやってくる運命にどうやって立ち向かって生きていこうか、ということに、全力を尽くしたいと考えています。めちゃめちゃ消極的だなと思われそうですが、毎年そんな感じで新年の誓いを立てています(笑)。

頑張るより、一所懸命がいい

「頑張る」という言葉はあまり好きではありません。「頑な」に「張る」と書くわけで、どことなく無理を押し通すイメージがあります。

同じ言うなら、「一所懸命」の方がいい。先のことは考えず、近くにある「一所」に「命を懸ける」という意味です。

自分にもやりたいことはあります。今年の目標もあります。でも、それが達成できるかどうかは分かりません。なので、目標は持ちつつも、結果は問わないというスタンスで一年を過ごしていきたいと思っています。

その結果、「今年もなんとか生きてこられてよかったね」という年末が迎えられれば、この一年は成功だったのではないでしょうか。

だから、今年も先のことは考えずに、「一所懸命」生きていきたいと思っています。

 

曲がったキュウリは嫌いですか?

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サドベリー教育とは

一般の人にサドベリー教育を理解してもらうのは、本当に難しいと思います。

先生がいない、授業がないということから、「世界一自由な学校」と呼ばれたりするのですが、その自由の奥にある教育に対する考え方を分かっていただかないと、理解は表面的なものに留まってしまいます。

では、その奥にあるものとは何か。それを説明するのが難しいのですが、今回はキュウリを用いて説明してみようと思います。

お店で売られるキュウリ

スーパーの店先で売られているキュウリは、みんなまっすぐで長さが揃っていますよね。

私たちもキュウリを選ぶとき、手に取って姿形のよさそうなものを選びます。

でも、ちょっと考えれば分かることですが、畑で採れるキュウリが全てあんなにまっすぐであろうはずはありません。見栄えの問題や流通の関係で、指定された箱に収まるまっすぐなものだけが選別され、店頭に並ぶわけです。

では、箱に収まらなかったキュウリはどうなるか。中には道の駅などで不揃いキュウリとして売られることもありますが、多くは売り物にならないということで捨てられることになります。

でも、食べてみると、曲がったキュリウは、見かけは悪いかもしれないけれど、味に遜色はありません。いや、むしろまっすぐのキュウリよりおいしい場合もあります。

指定された箱に収まらないというだけで捨ててしまうって、なんかもったいない気がしませんか?

学校という箱

もう、何が言いたいか分かりますよね。そう、今の日本の学校教育は、店で売るためのキュウリを揃える箱の役割を果たしているのです。長さの揃った姿形のよいキュウリを大量に出荷する場所。

これに比べて、子どもを指導する先生やカリキュラムが一切ないサドベリーでは、どんなキュウリが育つか予想がつかないのです。

そして、まっすぐなキュウリだけがいいと考えないのが、サドベリーの根底に流れる思想。短くても長くても曲がっていても、どんな格好のキュウリでも出荷するというわけです。

ここで誤解して欲しくないのは、長さの揃ったまっすぐのキュウリが悪いわけではないということ。そもそもキュウリを姿や形だけで判断しないというところが、サドベリーが最も大切にしている考え方なのだと思います。

子どもがその子らしく自由に育っていくために、学校にこだわることなく、いろいろな教育がフラットに選べる時代が来ることを願っています。