親子が対等って、どういうこと?

息子に教えられた朝

サドベリー教育などを行うデモクラティックスクールは、「親子は対等の関係」ということをよく言います。どんなに小さい子でも、一人の独立した人間とみなし、人権を認めて主体性を最大限に尊重すると考えるのです。

でも、ちょっと考えると、親と子は体の大きさも違えば、知識や経験の量も違います。それで「親子が対等」とはどういうことなのだろう、とかねがね疑問に思っていました。何もできない小さな子を、「大人と対等」と考えるのには無理があるんじゃないかと。

でも、今朝息子と話していて、その疑問が解けました。なるほど、「親と子が対等」ということはそういうことかと、目からうろこが落ちたのです。

ハンディキャップを埋める

うちの息子は中学校の3年間を「東京サドベリースクール」というデモクラティックスクールで過ごしました。それだけに、「自由」とか「人権」とか「主体性」とか「権利」とかについて、私などより深く考える機会があるのかもしれません。

「親子は本当は対等じゃないんじゃない?」と私がいうと、「いや、それは対等ということを理解していないんだよ」と彼は言いました。そして、次のようなことを指摘しました。

「この世に生まれた全ての人は、等しく平等であるべきだよね。本来、すべての人は対等になれる権利を持っているんだ。でも、実際に生まれて来る人は平等じゃないよね。障害を持って生まれたり、家庭に貧富の差もあったりする。それじゃ、本当の対等性は保たれない。だから、サポートが必要な人にはサポートを受ける権利がある。そのサポートを得て、ギャップを埋めて、初めて『対等性』が保たれるんだよ。それはおめぐみでもほどこしでもない、ハンディキャップのある人が持っている当然の権利なんだ。親子も同じだね。親と子が対等ってことは、なんでも子どもに任せて放っておけってことじゃない。子どもは弱い存在だから、自分にとって必要なサポートを親から受ける権利がある。そのサポートを得て、足りないところを補って、初めて親子は対等な関係になることができるんだと思う」

うーん、なるほどなと思いました。一般的に親は、子どもを未熟な存在と思いがちで、何かしてやらねばならないと考えています。たとえば「飯を食わせてやる」というのもその一つ。そこから、「俺が飯を食わせてやっているんだから、言うことを聞け」みたいな恩着せがましい発想も生まれてくるわけです。

でも、息子の言っていることを考えると、まるで違った見方ができます。「めしを食わしてもらう」のは、おめぐみでもほどこしでもない。子どもが親に対して持っている当然の権利です。その権利を行使して、初めて親と子は対等な関係になり、子どもの「人権」が保たれる。つまり、親子の対等な関係を担保するために、親は子をサポートする必要があるのです。

人権に対する考え方の違い

ヨーロッパの国々などと比べると、私を含めて日本人はそもそも「人権」や「平等」についての意識が低いように思います。たとえば生活保護にしても、なんとなく「税金を使って保護してやっている感」が強いのではないでしょうか。

ハンディキャップを負っている人に対しても同じです。「助けてあげる」とか「やさしくしてあげる」という発想ではなく、ハンディを負った人がサポートを受けるのは当然の権利であり、その権利を行使したうえで、初めて人間の平等性や対等性が保たれる。本来はこう考えるべきなのでしょう。

正直、自分自身、「人権」ということについてそこまで深く考えたことがなかったので、今日は息子からの指摘を受けて、とても参考になりました。

親が子どもの面倒を見たり、サポートしたりするのは、「子どもの人権」を保障するために必要なこと。親と子のギャップを埋めてこそ、初めて「親子は対等」な関係になれるのだと思います。

そしてまた、親子の対等性の問題は、障害者や高齢者、LGBTなど、すべての人の人権問題とつながっているんだなぁと改めて実感しました。

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自分の子はなぜかわいい?

8cf8a0a6831c9e6911cdf357561309a0_s当たり前を疑ってみる

本当になぜなんでしょう。なぜ、自分の子はかわいいと思えるのでしょう。

「え、 自分の子なんだから当たり前じゃない?」

確かにそうかもしれません。でも、多くの場合、最もやっかいな問題は「当たり前」と思えることの中に潜んでいるものです。

たとえば学校にしても、「通うのが当たり前」という固定観念が、不登校の子や保護者を苦しめているのではないでしょうか。

だから、今回はあえて「当たり前」を疑い、「なぜ自分の子はかわいいのか」ということを考えてみます。

子が活躍すると、親はなぜ嬉しいのか

この問題を考える前に、なぜ今回こんなテーマを取り上げたのかを説明します。それは、かねてより私の頭の中にあった、ある「モヤモヤ」に関係しています。

そのモヤモヤの正体は「子が褒められると、親はなぜ嬉しくなるのか」というものです。

たとえば自分の子が何かで成果を上げたとき、まるで自分が褒められたかのように嬉しくなることがあります。

もちろん、逆もあります。自分の子が人より劣っていたり、負かされたりするのを見ると、ちょっと悔しかったり、がっかりしてしまうのです。

この感情は、いったいどこから来るのだろう。なぜ、自分のことではない、子どものことなのに一喜一憂してしまうのだろう。

「親なんだから当たり前」といえばそれまでなんでしょうが、でも、この感情の奥底に、実はやっかいな親子の問題が隠れているような気がするのです。

よけいな心配と期待

なぜやっかいか。それはこの感情が、我が子に対するよけいな心配や期待の元になってしまうと思うからです。

たとえば、自分とは全然関係のない他人の子が、運動会で一等を取ったとします。そういうとき、「すごいなぁ」と感心はするものの、我が子のことのように嬉しくは思いません。だから、その子に「次も一等を取ってほしい」などと期待しないわけです。

でも、自分の子が一等を取ると、なぜか嬉しくなってしまう。嬉しくなってしまうから「次も一等だったらいいのにな」と密かに期待してしまうのです。

もちろん逆のことも起こりえます。子どもが負けたり失敗したりすると落胆して、がっかりします。だから、次回「大丈夫かな」「うまくできるかな」とよけいな心配をしてしまうのです。

こういう密かな「期待」や「心配」は実はやっかいなもので、知らぬうちに子に対して「こうなってほしい」「ああなったらいいな」という理想型を押しつけることにつながるのです。

はじめは「嬉しさ」という小さな心の動きなのに、それがやがて「期待」にかわり、「押しつけ」へと変化していくのです。

それは子どもへの愛なのか?

以前、エドキャンプという教育イベントに行ったとき、ある不登校経験者の青年がこんなことを言っていました。

「僕が学校に行くと親は喜ぶんですよね。だから、親は学校に行ける僕が好きで、学校に行けない僕は嫌いなんだと思っていました」

これは条件付きの愛というやつですね。親の期待に沿えば愛せるけど、そうでなければ愛せない。

子どもへの愛って、そんなものでいいのでしょうか?

本当の愛とはもっと懐の深いもの、相手の存在をまるごと受け入れ、包み込むようなものではないでしょうか。「○○な君は好き」「○○な君は嫌い」と、頭に○○が付くのは本当の愛ではないような気がします。

そう考えると、子どもが○○して嬉しくなったり、がっかりするのは、親としてとても危険な心の動きではないかと思えてきます。それは知らぬ間に、条件付きの愛に変わっていく恐れがあるからです。

子どもへの愛を条件付きのものにしないためにも、「自分の子はなぜかわいい?」という当たり前のことについて、もっと真剣に考えてみる必要があるように感じます。

次回は、このことについても、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。

成功体験というやっかいなもの

2e10dc9f90f16c15e2b0a302e4ba2437_s「成功体験」を疑おう

「成功体験」って、やっかいなものだと思いませんか。成功体験は自分自身にモチベーションや自信をもたらしてくれますが、反面、頭脳の硬直化を招くという反作用があるからです。

たとえば、一所懸命勉強していい大学に入り、一流企業に就職した人がいるとします。その人にとって「勉強」は必要不可欠のものだったでしょう。でも、世の中には勉強をしなくても成功した人はいくらでもいます。必ずしも「勉強=成功」ではないのです。

成功体験がポジティブに働くのは、あくまでも「自分にとっての」という条件下でのことであって、必ずしも他人にはあてはまらないことは、十分に知っておく必要があるでしょう。

子育ての邪魔になる成功体験

自分が足が速かったからといって、すべての人が速いとは限りません。自分にとって学校が楽しかったからといって、すべての人にとって楽しいとは限りません。辛いことがあったとき、自分が根性で乗り切れたからといって、誰もが乗り切れるとは限りません。

たぶん、多くの人は分かっているのだと思います。自分の成功体験が、必ずしも他人に対して当てはまるものではないということを。

ところがです、なぜか相手が自分の子となると、目が曇ってしまい、自分の成功体験でものを語ろうとする人が増えてきます。

「そんなことでへこたれるな。オレなんかな~」「そういうときは、がつんと言ってやればいいんだ~」「おれにできて、おまえにできないはずはない~」とかね。

オレがこうだったから、おまえもこうした方がいい。

なぜ、相手が我が子となると、こんな乱暴なことを平気で言ってのけてしまえるのでしょう。

たぶん、その背後には「親=子」の同一視というやっかいな問題が潜んでいるのだと思います。

自分と子どもの同一視

ほとんどの親は子どものことを深く愛しています。それゆえに、ちょっとしたことで心配したり、逆に過大な期待を寄せたりします。

そうするうちに、自分と子どもの境界が曖昧になり、「親=子」の同一視が始まってしまうのです。

子どもは自分の一部、そのような感覚が、親の客観的な目を曇らせ、他人に対してはやらない「成功体験を押しつける」ということを子どもにやってしまうのでしょう。

自分がこれでうまくやったんだから、子どももうまくやれるはずだと思って。

でも、残念ながら、子どもは自分と同じではありません。赤の他人とはいいませんが、まぎれもなく自分とは別の人間です。自分の成功体験は、必ずしも子には当てはまりません。

もう一つの落とし穴

実は、成功体験にはもう一つ大きな落とし穴があります。それは成功体験は、「あくまでも過去のものにすぎない」ということ。つまり、すべての成功体験は、所詮結果論にすぎないわけです。

だから、これから起きる出来事に、つまり子どもの未来の人生に、結果論を当てはめるのは無理があります。一度うまく行ったからといって、二度目もうまくいくとは限らないからです。

「柳の下のどじょう」という言葉がありますが、成功体験を押しつけるのは、まさに「二匹目のどじょう」を狙うことに似ています。

所詮、箱男のちっぽけな視野

確かに、ものごとを測るとき、自分の経験が一定の基準になることは否めません。物の大きさを比較するとき、煙草のパッケージやリップスティックをそばに置くのと同じですね。

でも、この場合、自分の経験はある程度の目安にはなるものの、基準になることはないと肝に銘じておくべきです。

人間が一生かけて経験できることなんてたかが知れています。書籍を読んで得た知識も、個人が一生のうちで得られるものなんて、とてつもなく少ないのです。

たとえば、一週間に2冊本を読んだとして、1年に約100冊。そのペースで80年間読み続けても、たかだか8千冊しか読めません。東京の八重洲ブックセンターには40万冊の蔵書があるそうですから、一生かけてもその50分の1しか読めないのです。

所詮、その程度のちっぽけな経験や見識からしか、人は世の中を見ることはできないのです。

安部公房に「箱男」という小説があります。終始箱をかぶって、箱にうがった穴から世間をのぞいている男のことを描いた小説ですが、私たちの視野はまず間違いなく「箱男」レベルの狭小なものです。

成功体験なんて、所詮、その程度のちっぽけなもの。

そんな一歩引いた目で自分の成功体験と向き合って、子どもの未来を考えてみませんか。

これからの人生で成功していかなければならないのは、親ではなく、子ども自身なのですから。

人生にゴールはない。

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出口と思えるものは入口にすぎない。

人生には「目標」が必要だと多くの人が言います。確かに目標に向かって努力することや、努力して何かを達成することは大切だと思います。生きている意味をそこに見出すことができるからです。

ただし……と私は思うのです。目標に向かっていく過程は人生を豊かにしてはくれますが、目標や結果にこだわりすぎるのはどうかな?と。なぜなら、目標の達成や結果は、長く続く人生の通過点の一つに過ぎないからです。

トンネルには入口と出口があります。確かに「出口」のところでトンネルは終わりますが、道はずっと続いていきます。そういう意味では、トンネルの終わりは明るい世界への「入口」と考えることもできます。「出た」と思った瞬間、次の世界へ「入って」いく。つまり、「出口」は次の世界の「入口」になるわけです。

結果にこだわらない生き方。

目標を立てて頑張ることは悪いことではありません。でも、目標を達成するのがあたかもゴールであるような考えには賛成できません。目標の達成は通過点の一つに過ぎず、それで人生が決まるということもないと思います。

たとえば、学校の入学試験。いい学校に入れたからといって、それがゴールではありません。それは新たな世界への入口にすぎず、合格で浮かれていられるのは一瞬で、そこから先はふたたび苦楽のある長い道のりが続いていきます。

人生は一本の長いロープのようなもので、いくつかの節目はあるものの、ずっと先までつながっています。「禍福はあざなえる縄の如し」というように、いいことが必ずしもよいとは限らず、逆に悪いことが必ずしも悪いとは限らないのです。

人生は百年つづく

日本人は時間をきっちり守ることで有名です。日本の鉄道を見れば分かりますね。「つくばエクスプレス」の電車が定刻より20秒早く出発しただけで、会社が謝罪したということが世界中でニュースになりました。それぐらい日本の社会は時間に正確なのです。

時間を守るのはいいのですが、もう少しゆとりがあってもいいのではないかと正直思います。何事もきっちりしすぎると、息苦しくなってくるものです。

6歳で小学校、12歳で中学校、15歳で高校、18歳で大学。そして22歳で一斉就職。日本の就学・就職のシステムも、まるで鉄道の運行のようにきっちりしています。この流れに乗り遅れまいと、みんなが必死。子どもが不登校になると、絶望的な心境になってしまう親御さんもよく見かけます。

人生百年時代といわれる今、数年の遅れはどうってことはありません。実際、みんなと同じ就学の流れに乗らなくても、まったく問題ありません。学校に行くだけが学びじゃないから。若いうちはいっぱい寄り道をして、学校では学べない人生の勉強をするのもいいと思います。

人生にゴールはない

目の前に「目標」というニンジンをぶら下げて、必死に追いかけるドッグレースのような人生はやめにしませんか? 牛丼をあわててかき込むような生き方より、山あり谷ありの人生をゆっくり味わうコース料理のような生き方のほうが豊かなような気がします。

長い自分の人生をどうやって使うか。全体を視野に入れた生き方をすれば、短期的な目の前の結果に一喜一憂する必要はなくなると思います。

人生にゴールはない。唯一あるとすれば、それは自分が死ぬときです。死の床にあって「よい人生だったなぁ」としみじみ振り返られるような生き方を、私自身としてはしたいと思っています。

そして、自分の子どもにも。慌てず焦らず、短期の成果にこだわらず、長い目で自分の人生を考えていってもらいたいと切に願います。

子どもの脳と幸福感

f168e34d0b95f6b056fcf6214e188d3b_m脳と幸福感の関係

ちょっと前の話(2015年)になりますが、京都大学の佐藤准教授の研究グループが、「人間の脳の部位と幸福感」についての関係を明らかにしました。その研究によると、「幸福感」を感じる人は、脳の右半球の「楔前部」という部位が大きく発達しているそうです。

また、ポジティブな感情を強く感じ、人生の意味を見出しやすい人は、この領域が大きいとのこと。「幸福」という主観的な感情を、世界で初めて客観的に明らかにした研究として注目されました。

この研究を発表した佐藤准教授は、同時に、「瞑想(めいそう)トレーニングによって楔前部の体積が変わるという研究報告もある」と話しています。日々のトレーニングによって体を鍛えるように、瞑想を通して「幸福を感じる脳」を鍛えることができるというのです。

子どもの脳

この話を知って気になったことがひとつありました。それは「子どもの脳」についてです。

自分が子どもの頃を振り返ると、何もせずに「ぼーっ」としていた時間が意外に多かったように思ったのです。

草むらに横たわって空に浮かぶ雲を眺めたり、食べかすに群がる蟻をひたすら観察していたり、川辺にしゃがみこんで水が渦を巻きながら流れていくのを見ていたり……。

こういう「何もしていない時間」は、一見無駄のように思われるけど、もしかすると「瞑想」に似た状態で、脳の「楔前部」を発達させることに役立っていたのではないか、そんな風に思えたのです。

忙しい子どもたち

振り返って、いまの時代、子どもたちはどこまで「ぼーっ」とする時間を約束されているのでしょうか。

国・算・理・社の学びに加え、英語やプログラミングなど、いまの子どもは毎日やることがいっぱい。音楽、図工、体育もひととおりやらねばならないし、それに宿題や学習塾での勉強などを加えると、まさに企業戦士なみの忙しさです。

こんな日々を過ごす子どもたちに、「ぼーっ」と雲を眺める時間や、蟻の隊列を観察する時間があるのでしょうか。

もし、本当に「瞑想」が幸福を感じる脳の部位を発達させることに役立つのであれば、いまの子どもたちは忙しい日常によって、「幸福感」を発達させる大切な時間を奪われていることになります。

幸福感という土台を築く

どんな人の人生にも辛い時期があります。くじけそうになる出来事に直面することもあるでしょう。そんなとき、ピンチを乗り越え、新たな人生へと向かう活力を生み出してくれるのは、「幸福感」ではないでしょうか。言い換えれば、それは「物事をポジティブに捉える力」です。

子どもの時期に最も大切なのは、英語でも、プログラミングでも、教科学習でもない。そんなものは大きくなってからでも、いくらでも身に付きます。

大切なのは、「ぼーっ」としている時間。つまらないことで笑い転げられる時間。冒険してドキドキしていられる時間。心の底から安心していられる時間。つまり、子どもが子どもらしくしていられる時間ではないでしょうか。

人生は建築と同じで、基礎がしっかりしていないと立派な家は建ちません。人生の基礎とは、幸福を感じる力であり、物事をポジティブに捉える力だと思います。その土台の部分が不安定な時期に、あれこれ学ばせて忙しくさせるのは、長い人生にとってあまりいいことではないように思います。

子どもの時期こそ、何もせず、「ぼーっ」と過ごす時間を大事にしてあげたい。天気のよかった正月、「ぼーっ」と過ごしていたら、ふとそんなことが頭に浮かびました。

教育は「人材」を育てるためにあるのではない

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教育とイノベーション

朝のテレビ番組を見ていたら、特集のコーナーで「日本になぜイノベーションが起きないのか」ということをやっていました。その原因は、明治に始まった軍国教育にあると。そして未だにその軍国教育が日本では続いていて、人と違うことをやる人間がつぶされているということを言っていました。

運動会は軍人を育成するために始まった軍国教育で、就職の一括採用も太平洋戦争の開戦の日に成立した法律に基づいてできた制度だそうです。要するに、国にとって都合のいい、言うことを聞く人間を育成する教育が、明治期以来ずっと日本では続いているという話でした。

そして、個性を突出させず、周囲の人間とうまく協調できる人間を育てるいまの教育では、イノベーションは起こらないという論調。アメリカのようにイノベーションを起こす国になるためには、教育から変えていく必要があるという結論でした。

この意見にはまったく同感なのですが、しかし、「教育」と「人材育成」を直接結び付ける考えに、少し違和感を覚えてしまいました。

教育は人材育成のためにあるのか?

なぜ違和感を覚えたのか。それは「教育」の目的を「人材育成」に置いているところです。つまり、国家の繁栄のために、いまの教育では物足りないという考えが、その特集の根底にかいま見えたからです。

国のために人材を育成する? それじゃあ明治時代に、私たちの先人がやったことと同じじゃありませんか。教育は国威発揚のために行うものではない、と私は考えます。だから、国にイノベーションを起こすために教育を見直すという考え方そのものに違和感を覚えました。

教育は、「人材」を育てるためにあるのではありません。「人間」を育てるために行うものです。「人材」を育てようと思っているうちは、明治時代の人間の思考から抜けきれないと思います。

教育の真の目的

うちの息子は、サドベリースクールという自由な学校に通いました。すると決まって「サドベリーのような自由な学校では、イノベイティブな人間が育つのですか?」ということを聞かれます。

私が強く思うのは、「○○○のような人を育てるために教育がある」という発想を、もうやめませんかということです。ある理想的な人間の型を思い描き、そこに子どもたちを当てはめていく、そういう教育のあり方そのものが賞味期限切れになっているのです。

では、なんのために教育はあるのでしょうか。私が自分なりに出した答えは、「人が幸せに生きていくためにある」です。では、どうすれば人は幸せになれるのでしょう。

それは教育の力だけでは難しく、一人ひとりの人間が自分で考えていくしかないことだと思います。教育はその「考える力」を与えるツールのひとつではないでしょうか。

一人では幸せになれない

大切なのは、子ども一人ひとりが「自分で考える人」になること。そのためには子どもの人権を尊重し、個性を尊重することが大切だと思います。そしてもうひとつ、子どもに大人の理想型を押しつけないこと。

子どもが「自分」を好きになり、「自分」を大切にしようと思ったら、自然と「自分を幸せにする」ための方法を考えるようになるでしょう。

そして、「どうやったら自分が幸せになれるか」を考える人間は、きっと他人も尊重するようになるでしょう。よくよく考えれば、自分一人だけ幸せになれる社会というのはありえないことが分かるから。だから、いちばん大切なのは、やっぱり「自分で考える力」を身につけることだと思います。

「イノベーションを生み出すためにはどんな教育が必要か」を考えている限り、日本人は幸せになれないかもしれません。

それぞれが自分の人生としっかり向き合い、自分の人生に責任を持ち、自分を幸せにするために周囲と協調して暮らしやすい社会を創っていく。そういう「考える力」を持った「個」が確立されて、はじめて21世紀の豊かな社会が見えてくるのではないでしょうか。

「自分で考える力」を持った人間がたくさん現れれば、結果として、日本にもイノベーションが起きるかもしれません。あくまでも、結果としてという話ですが……。

Edcamp川崎に出て感じたこと。

321a955bc6f034959f12beba3425b50e_sEdcampというイベントがあります。教育に興味関心のあるさまざまな人が集まって、交流し、話し合うというイベント。昨日は川崎の洗足学園小学校で開かれ、そこに参加してきました。

Edcampに参加するのはこれが3回目。教育に熱い思いを持った人が集まるので、有意義で楽しい話しあいができます。で、昨日の交流でちょっと違和感を覚えたことがあったので、それをここに書いてみたいと思います。

その違和感というのは、主に学校の先生方が抱いている「○○させたい、してあげたい」という感覚です。

生徒思いの先生が多かったので、それはそれでいいのかなと思いますが、ただ一つ言わせていただければ、少なくとも「自主性」や「個性」については「○○させたい、してあげたい」という感覚は通用しないと思います。

なぜなら、「自主性」や「個性」は自然と育つものであって、決して外側から「身に着けさせてあげられる」ものではないからです。

そもそも「自主性をつけてあげたい」という言葉自体、矛盾をはらんでいると思います。なぜなら「○○してあげる」という感覚や行為そのものが、子どもの自主性を否定しているからです。

国語や算数などの教科学習であれば、工夫次第で生徒が興味を持ったり、勉強するようになったりするのかもしれません。でも、少なくとも「自主性」「個性」などについては、「○○してあげる」的感覚は通用しません。

もしかすると、日本の教育で「生きる力」「考える力」が身につかないと言われるのは、大人が抱える「○○させたい、してあげたい」という感覚に起因するのかもしれません。

「○○させたい」「○○してあげたい」の裏に潜むのは、自分が何もしなければ子どもは成長しないという感覚ではないでしょうか。つまり、心の底から「子どもの力」を信じていない、そこに子どもたちへの不信感が潜んでいるのです。

「自主性」「個性」を本当に伸ばしたいのであれば、子どもの「生きる力」を信じる、ただそれだけでいいと思います。先回りして余計な世話を焼くことは、かえって子どもの「自主性」「個性」を削いでいくのではないでしょうか。

「○○させたい、してあげたい」という想いを捨てることこそが、子どもの「自主性」「個性」を伸ばすことにつながっていくのだと思います。