人生にゴールはない。

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出口と思えるものは入口にすぎない。

人生には「目標」が必要だと多くの人が言います。確かに目標に向かって努力することや、努力して何かを達成することは大切だと思います。生きている意味をそこに見出すことができるからです。

ただし……と私は思うのです。目標に向かっていく過程は人生を豊かにしてはくれますが、目標や結果にこだわりすぎるのはどうかな?と。なぜなら、目標の達成や結果は、長く続く人生の通過点の一つに過ぎないからです。

トンネルには入口と出口があります。確かに「出口」のところでトンネルは終わりますが、道はずっと続いていきます。そういう意味では、トンネルの終わりは明るい世界への「入口」と考えることもできます。「出た」と思った瞬間、次の世界へ「入って」いく。つまり、「出口」は次の世界の「入口」になるわけです。

結果にこだわらない生き方。

目標を立てて頑張ることは悪いことではありません。でも、目標を達成するのがあたかもゴールであるような考えには賛成できません。目標の達成は通過点の一つに過ぎず、それで人生が決まるということもないと思います。

たとえば、学校の入学試験。いい学校に入れたからといって、それがゴールではありません。それは新たな世界への入口にすぎず、合格で浮かれていられるのは一瞬で、そこから先はふたたび苦楽のある長い道のりが続いていきます。

人生は一本の長いロープのようなもので、いくつかの節目はあるものの、ずっと先までつながっています。「禍福はあざなえる縄の如し」というように、いいことが必ずしもよいとは限らず、逆に悪いことが必ずしも悪いとは限らないのです。

人生は百年つづく

日本人は時間をきっちり守ることで有名です。日本の鉄道を見れば分かりますね。「つくばエクスプレス」の電車が定刻より20秒早く出発しただけで、会社が謝罪したということが世界中でニュースになりました。それぐらい日本の社会は時間に正確なのです。

時間を守るのはいいのですが、もう少しゆとりがあってもいいのではないかと正直思います。何事もきっちりしすぎると、息苦しくなってくるものです。

6歳で小学校、12歳で中学校、15歳で高校、18歳で大学。そして22歳で一斉就職。日本の就学・就職のシステムも、まるで鉄道の運行のようにきっちりしています。この流れに乗り遅れまいと、みんなが必死。子どもが不登校になると、絶望的な心境になってしまう親御さんもよく見かけます。

人生百年時代といわれる今、数年の遅れはどうってことはありません。実際、みんなと同じ就学の流れに乗らなくても、まったく問題ありません。学校に行くだけが学びじゃないから。若いうちはいっぱい寄り道をして、学校では学べない人生の勉強をするのもいいと思います。

人生にゴールはない

目の前に「目標」というニンジンをぶら下げて、必死に追いかけるドッグレースのような人生はやめにしませんか? 牛丼をあわててかき込むような生き方より、山あり谷ありの人生をゆっくり味わうコース料理のような生き方のほうが豊かなような気がします。

長い自分の人生をどうやって使うか。全体を視野に入れた生き方をすれば、短期的な目の前の結果に一喜一憂する必要はなくなると思います。

人生にゴールはない。唯一あるとすれば、それは自分が死ぬときです。死の床にあって「よい人生だったなぁ」としみじみ振り返られるような生き方を、私自身としてはしたいと思っています。

そして、自分の子どもにも。慌てず焦らず、短期の成果にこだわらず、長い目で自分の人生を考えていってもらいたいと切に願います。

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子どもの脳と幸福感

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ちょっと前の話(2015年)になりますが、京都大学の佐藤准教授の研究グループが、「人間の脳の部位と幸福感」についての関係を明らかにしました。その研究によると、「幸福感」を感じる人は、脳の右半球の「楔前部」という部位が大きく発達しているそうです。

また、ポジティブな感情を強く感じ、人生の意味を見出しやすい人は、この領域が大きいとのこと。「幸福」という主観的な感情を、世界で初めて客観的に明らかにした研究として注目されました。

この研究を発表した佐藤准教授は、同時に、「瞑想(めいそう)トレーニングによって楔前部の体積が変わるという研究報告もある」と話しています。日々のトレーニングによって体を鍛えるように、瞑想を通して「幸福を感じる脳」を鍛えることができるというのです。

子どもの脳

この話を知って気になったことがひとつありました。それは「子どもの脳」についてです。

自分が子どもの頃を振り返ると、何もせずに「ぼーっ」としていた時間が意外に多かったように思ったのです。

草むらに横たわって空に浮かぶ雲を眺めたり、食べかすに群がる蟻をひたすら観察していたり、川辺にしゃがみこんで水が渦を巻きながら流れていくのを見ていたり……。

こういう「何もしていない時間」は、一見無駄のように思われるけど、もしかすると「瞑想」に似た状態で、脳の「楔前部」を発達させることに役立っていたのではないか、そんな風に思えたのです。

忙しい子どもたち

振り返って、いまの時代、子どもたちはどこまで「ぼーっ」とする時間を約束されているのでしょうか。

国・算・理・社の学びに加え、英語やプログラミングなど、いまの子どもは毎日やることがいっぱい。音楽、図工、体育もひととおりやらねばならないし、それに宿題や学習塾での勉強などを加えると、まさに企業戦士なみの忙しさです。

こんな日々を過ごす子どもたちに、「ぼーっ」と雲を眺める時間や、蟻の隊列を観察する時間があるのでしょうか。

もし、本当に「瞑想」が幸福を感じる脳の部位を発達させることに役立つのであれば、いまの子どもたちは忙しい日常によって、「幸福感」を発達させる大切な時間を奪われていることになります。

幸福感という土台を築く

どんな人の人生にも辛い時期があります。くじけそうになる出来事に直面することもあるでしょう。そんなとき、ピンチを乗り越え、新たな人生へと向かう活力を生み出してくれるのは、「幸福感」ではないでしょうか。言い換えれば、それは「物事をポジティブに捉える力」です。

子どもの時期に最も大切なのは、英語でも、プログラミングでも、教科学習でもない。そんなものは大きくなってからでも、いくらでも身に付きます。

大切なのは、「ぼーっ」としている時間。つまらないことで笑い転げられる時間。冒険してドキドキしていられる時間。心の底から安心していられる時間。つまり、子どもが子どもらしくしていられる時間ではないでしょうか。

人生は建築と同じで、基礎がしっかりしていないと立派な家は建ちません。人生の基礎とは、幸福を感じる力であり、物事をポジティブに捉える力だと思います。その土台の部分が不安定な時期に、あれこれ学ばせて忙しくさせるのは、長い人生にとってあまりいいことではないように思います。

子どもの時期こそ、何もせず、「ぼーっ」と過ごす時間を大事にしてあげたい。天気のよかった正月、「ぼーっ」と過ごしていたら、ふとそんなことが頭に浮かびました。

教育は「人材」を育てるためにあるのではない

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教育とイノベーション

朝のテレビ番組を見ていたら、特集のコーナーで「日本になぜイノベーションが起きないのか」ということをやっていました。その原因は、明治に始まった軍国教育にあると。そして未だにその軍国教育が日本では続いていて、人と違うことをやる人間がつぶされているということを言っていました。

運動会は軍人を育成するために始まった軍国教育で、就職の一括採用も太平洋戦争の開戦の日に成立した法律に基づいてできた制度だそうです。要するに、国にとって都合のいい、言うことを聞く人間を育成する教育が、明治期以来ずっと日本では続いているという話でした。

そして、個性を突出させず、周囲の人間とうまく協調できる人間を育てるいまの教育では、イノベーションは起こらないという論調。アメリカのようにイノベーションを起こす国になるためには、教育から変えていく必要があるという結論でした。

この意見にはまったく同感なのですが、しかし、「教育」と「人材育成」を直接結び付ける考えに、少し違和感を覚えてしまいました。

教育は人材育成のためにあるのか?

なぜ違和感を覚えたのか。それは「教育」の目的を「人材育成」に置いているところです。つまり、国家の繁栄のために、いまの教育では物足りないという考えが、その特集の根底にかいま見えたからです。

国のために人材を育成する? それじゃあ明治時代に、私たちの先人がやったことと同じじゃありませんか。教育は国威発揚のために行うものではない、と私は考えます。だから、国にイノベーションを起こすために教育を見直すという考え方そのものに違和感を覚えました。

教育は、「人材」を育てるためにあるのではありません。「人間」を育てるために行うものです。「人材」を育てようと思っているうちは、明治時代の人間の思考から抜けきれないと思います。

教育の真の目的

うちの息子は、サドベリースクールという自由な学校に通いました。すると決まって「サドベリーのような自由な学校では、イノベイティブな人間が育つのですか?」ということを聞かれます。

私が強く思うのは、「○○○のような人を育てるために教育がある」という発想を、もうやめませんかということです。ある理想的な人間の型を思い描き、そこに子どもたちを当てはめていく、そういう教育のあり方そのものが賞味期限切れになっているのです。

では、なんのために教育はあるのでしょうか。私が自分なりに出した答えは、「人が幸せに生きていくためにある」です。では、どうすれば人は幸せになれるのでしょう。

それは教育の力だけでは難しく、一人ひとりの人間が自分で考えていくしかないことだと思います。教育はその「考える力」を与えるツールのひとつではないでしょうか。

一人では幸せになれない

大切なのは、子ども一人ひとりが「自分で考える人」になること。そのためには子どもの人権を尊重し、個性を尊重することが大切だと思います。そしてもうひとつ、子どもに大人の理想型を押しつけないこと。

子どもが「自分」を好きになり、「自分」を大切にしようと思ったら、自然と「自分を幸せにする」ための方法を考えるようになるでしょう。

そして、「どうやったら自分が幸せになれるか」を考える人間は、きっと他人も尊重するようになるでしょう。よくよく考えれば、自分一人だけ幸せになれる社会というのはありえないことが分かるから。だから、いちばん大切なのは、やっぱり「自分で考える力」を身につけることだと思います。

「イノベーションを生み出すためにはどんな教育が必要か」を考えている限り、日本人は幸せになれないかもしれません。

それぞれが自分の人生としっかり向き合い、自分の人生に責任を持ち、自分を幸せにするために周囲と協調して暮らしやすい社会を創っていく。そういう「考える力」を持った「個」が確立されて、はじめて21世紀の豊かな社会が見えてくるのではないでしょうか。

「自分で考える力」を持った人間がたくさん現れれば、結果として、日本にもイノベーションが起きるかもしれません。あくまでも、結果としてという話ですが……。

Edcamp川崎に出て感じたこと。

321a955bc6f034959f12beba3425b50e_sEdcampというイベントがあります。教育に興味関心のあるさまざまな人が集まって、交流し、話し合うというイベント。昨日は川崎の洗足学園小学校で開かれ、そこに参加してきました。

Edcampに参加するのはこれが3回目。教育に熱い思いを持った人が集まるので、有意義で楽しい話しあいができます。で、昨日の交流でちょっと違和感を覚えたことがあったので、それをここに書いてみたいと思います。

その違和感というのは、主に学校の先生方が抱いている「○○させたい、してあげたい」という感覚です。

生徒思いの先生が多かったので、それはそれでいいのかなと思いますが、ただ一つ言わせていただければ、少なくとも「自主性」や「個性」については「○○させたい、してあげたい」という感覚は通用しないと思います。

なぜなら、「自主性」や「個性」は自然と育つものであって、決して外側から「身に着けさせてあげられる」ものではないからです。

そもそも「自主性をつけてあげたい」という言葉自体、矛盾をはらんでいると思います。なぜなら「○○してあげる」という感覚や行為そのものが、子どもの自主性を否定しているからです。

国語や算数などの教科学習であれば、工夫次第で生徒が興味を持ったり、勉強するようになったりするのかもしれません。でも、少なくとも「自主性」「個性」などについては、「○○してあげる」的感覚は通用しません。

もしかすると、日本の教育で「生きる力」「考える力」が身につかないと言われるのは、大人が抱える「○○させたい、してあげたい」という感覚に起因するのかもしれません。

「○○させたい」「○○してあげたい」の裏に潜むのは、自分が何もしなければ子どもは成長しないという感覚ではないでしょうか。つまり、心の底から「子どもの力」を信じていない、そこに子どもたちへの不信感が潜んでいるのです。

「自主性」「個性」を本当に伸ばしたいのであれば、子どもの「生きる力」を信じる、ただそれだけでいいと思います。先回りして余計な世話を焼くことは、かえって子どもの「自主性」「個性」を削いでいくのではないでしょうか。

「○○させたい、してあげたい」という想いを捨てることこそが、子どもの「自主性」「個性」を伸ばすことにつながっていくのだと思います。

学校アレルギー

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不登校を食べもので考える

子どもが不登校になるのにはいろんな理由がありますね。それを「不登校」のひとことで片づけるのはかなり危険だと思います。なぜ危険なのかを、食べものに置き換えて考えてみましょう。

たとえば「ケーキが食べられない子」がいるとします。なぜ食べられないのか理由はよく分かりません。ここで「ケーキおいしいのにどうして食べないの?」とか「わがまま言わないで食べなさい」と言うのは、非常に危険な行為だと思います。

なぜなら、その子は小麦アレルギーかもしれないからです。小麦アレルギーの人間に小麦を食べさせると、最悪の場合はショックで死に至ります。不登校も本質的には同じことではないでしょうか。

学校PTSD

「PTSD」という心の病があります。兵士が戦地などで悲惨な体験をしたとき、日常に戻ってからその体験がフラッシュバックのように甦り、恐怖が持続するという病です。不登校になった子の中には、まさに同じような体験をしている子がいます。

こういうケースの場合は、「不登校」という曖昧な言葉を使わない方がいいと思います。「学校PTSD」もしくは「学校トラウマ」、あるいは「学校アレルギー」という呼称が適切ではないでしょうか。

「学校PTSD」や「学校トラウマ」になった子に登校を促すのは、性的被害に遭った女性に恋愛を強要するようなもの。まさに子どもの人権を無視した、非常に残酷で、危険な行為だと思います。

認識の甘さが被害を拡大する

よく「不登校」という言葉が悪いんじゃないのという話を耳にします。「フリースクーリング」「ノマドスクーラー」と呼んだ方がいいんじゃないの?

それはそれで一理あると思いますが、看板を掛け替えるだけでイメージを良くしようというのは、本質的な解決にはならないと私は考えます。

「不登校」自体は学校に行っていない状態を示しているだけなので、良くも悪くもありません。問題は、学校が苦手な人間に通学を「強要」することにあるのだと思います。

不登校に悩む子や保護者は、本当に辛い思いをしています。それを無神経に「学校に戻ってきなよ」「学校楽しいよ」などというのは、レイプされた女性に「恋愛楽しいよ」と言うのと同じくらい残酷なことなのです。

学校除去食を作ろう

小麦アレルギーの子どもに無理やり小麦を食べさせますか? 食べると死んでしまうことを知っていて、なおかつ食べさせる人がどこにいるでしょうか? 小麦アレルギーの子には、小麦を抜いてケーキを作ってあげるのが正しい対処の仕方だと思います。

とくに学校の先生にお願いです。不登校の子の中には「学校PTSD」や「学校トラウマ」になっている子がいることを忘れないでください。そういう場合、クラスメイトに手紙や寄せ書きを書かせて持って行き、登校を促すのは非常に危険な行為です。

また、保護者の方にもお願いがあります。学校アレルギーの子には、ぜひ「学校除去食」を作ってあげてください。それはつまり、フリースクールやオルタナティブスクール、ホームスクーリングなど、学校以外の多様な学びを選択するということです。

「学校アレルギー」「学校PTSD」「学校トラウマ」、少々激しい言葉に聞こえますが、通学を強要することで生じる「不登校の二次障害」を防ぐためには、このくらい強い言葉を用いてしかるべきだと考えます。

分かっているのに、できない。

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理解しただけではできないこと

先日、久々に開いたお話し会に、6名の方が参加してくださいました。テーマは「子どもの幸せって何? 人の幸せって何?」。安心安全な場の空気の中、少人数でゆっくりとテーマについて話し合うことができました。
そんな中で、個人的に気になった話題がありました。それは「分かっているのに、できない」こと。たとえば、子どもにいちいち口出しするのは逆効果だと「分かっているのに、できない」。不登校でも大丈夫だと「分かっているのに、不安になる」などです。
たしかに、「分かっているのに、できない」ことは、この世の中にたくさんあります。たとえば自転車。ペダルを右と左の足で交互に漕いでバランスを取れば走れると、「分かっているのに、できない」。
泳ぐこともそうですね。泳ぎ方を教わっても、頭でそれを理解しても、実際に水の中に入ってみると体は思うように動かない。ゴボゴボと水の中に沈んでしまいます。
これが何を物語っているかというと、人は「理解」しただけじゃ何もできないということではないでしょうか。

納得とは、納めて得ること

いま、私はここで文章を書いています。その内容に「ふむふむ、分かる」と頷いた方がいたとしても、それは頭で理解しただけで心から納得したわけではないでしょう。
そう、「納得」という字は「納めて得る」と書きますよね。頭で理解したことが腹の中に落ちてきて、「納まって」、自分のものとして「得る」までにはそれなりの時間がかかるのです。
そして、時間をかけるだけではだめで、何度も繰り返しやって、試行錯誤を繰り返し、失敗を積み重ね、ようやく自分のものとして「得る」ことができるのではないでしょうか。
「分かっているのに、できない」のはむしろ当たり前のことで、できないからといって放棄したり、諦めたりする必要はない。何度も同じ過ちを繰り返し、少しずつ自分のものにしていけばいいのだと思います。

諦めずに続けること

「ついつい子どもを叱ってしまう」「将来が不安になってしまう」「ありのままの子どもを認めることができない」、そうおっしゃる方がけっこういます。頭では分かっているんだけど、なかなか思うようにできない。
でも、ここが肝腎で、だからといって諦めずに、自分が信じたやり方を続けることが大切ではないでしょうか。
子育ても、自転車や水泳と同じで、失敗を繰り返していくうちに、いつしか自分のものになっていくのだと思います。

不登校と多様な学びをつなぐ

なぜ、おはなしワクチンを始めたか

去年の11月から、「おはなしワクチン」という活動を始めました。お子さんが小学校に上がる前の保護者さんを対象に、「不登校は問題ではないこと」「学校以外の多様な学びの場があること」を知っておいてもらうという活動です。

義務教育といいますが、憲法や法律を見ると、どこにも就学の義務は定められていません。子どもの教育権を保障するために、保護者に子を学校に通わせる義務を課しているだけ。子どもにとっては就学は「権利」であって、「義務」ではないのです。だから、子どもが学校に行きたくない場合、法律的に見て、行く必要はまったくないのです。

ところが、それなのに、いまだに「学校復帰」の圧力が強く、不登校で苦しんでいる保護者さんやお子さんは大勢います。なぜでしょう。

「正確な情報が届いていない」というのが、私の感想です。学校の先生ですら「オルタナティブ教育」という言葉を知らなかったり、「教育機会確保法」を知らない人がたくさんいます。保護者の方も、いまだに子どもは学校に行くべきものと信じている人が少なくありません。

嫌なら学校に行く必要はない!自分に合った学び方ができる時代になっている!

正しい情報さえ知っていれば、不登校はそもそも問題にすらなりません。だから、正確な情報を未就学の段階から保護者に届けていこうと考えて始めたのが「おはなしワクチン」の活動でした。

未来の先生展2018でやります!

去年の暮れから始めた活動ですが、いろんな方のご協力により、「おはなしワクチン」は少しずつ広がっています。今年の初めには「りんごの木」という保育の場で開かせていただき、そのご縁から「保育語りBAR」さんのお招きで、小平の「うめの木保育園」で主に保育の先生を対象に行いました。

一部上場企業の凸版印刷さんでも、WAOという立派なセミナールームで開催させていただきました。そして、この9月15日(土)には、聖心女子大学で開催される「未来の先生展2018」でも「おはなしワクチン」をさせていただきます。

10月17日(水)には、自主保育をしているお母さんグループのお招きで、「川崎市子ども夢パーク」で開催予定。その後12月には、損害保険を扱う外資系企業で開催し、また、年末年始には山口県でやってくださいという嬉しいお声がけもいただいています。

「法律的に見て不登校は問題ではないこと」「世の中には学校以外の学びの場があること」。一人でも多くの人にこの情報を伝えるために、「おはなしワクチン」の活動を続けていきます。

もし、「うちでもやってほしい!」という方がいらしたら、ぜひ、気軽に声をかけてください。ご希望の方は、こちらのブログにコメントをください。企業セミナー以外は、すべて無料で開催させていただいています。